セクシュアル・ランゲージ 第二話
二メートル程の身長の男が、枇々木の頭を撫でた。枇々木はブルっと身を震わせ、一歩も動くことができなかった。
(なに言ってるの先輩! 仲間って……! あたしにあんなことしろってこと!? )
彼女は混乱していたが、男は平然と俺のそばに近づいて説明を始めた。
「いいですか。この雑木林の先は性言語の世界です。私は口語を話せますが、ここにいる大多数の人間は話すことができません。彼らとコミュケーションを取りたければ、性言語を習得する必要があります」
男は枇々木の頭に置いていた手をよけると、彼女と身体の側部をくっつけるようにピタッと寄り添い立った。
「ひとつだけ教えてさしあげます。これは“違い”です」
悪びれる様子もなく堂々と異性の肌触れてる男に、枇々木は驚いて目を丸くして男を見上げた。
さらに、思い出したかのように枇々木の袖をたくし上げ始めた。
「きゃあっ!?」
「性言語は素肌のぬくもりが大切なのです。ご覧ください。部族の者は皆、生まれたままに近い姿でしょう?」
シャツの袖を二の腕の真ん中までまくり上げると、男は民族の住居を指さした。
暗闇の中目を凝らして見れば、確かに簡素な格好をしている。男女とも麻でできたワンピースのような服を着て、腰部を紐で結んでいる。この辺りは熱帯気候に属していて、一年中雨が多く蒸し暑いからそのせいかと思っていた。まさか、コミュケーションのためだとは思わなかった。
(なるほど……)
こんな状況で不謹慎ながら、知的好奇心が沸き立ってきた。「性言語」という名だけに下ネタを連想していたが、あくまでも「ふれあい」「ぬくもり」がキーワードなのだ。
「原始の人間も、似たような服装をしているしな」
生まれてから必要最低限のミルクや着替えしかしないで赤子を育てると、皆死んでしまうという実験結果がある。命を落としてしまうほど触れ合いや言葉は人間には欠かせない要素だということは、以前から証明されている。
(同じ原理か)
俺は微笑んで、長身の男に握手を求めた。
その瞬間、ザッと衣連れの音がし、同時に下半身がスースーした。
「……は?」
目の前の枇々木の履いていたロングパンツが消えている。美しい脚が夜風に晒され、枇々木は唖然とした様子で、とりあえず股の辺りを手で覆っている。
まさかとは思うが。
俺は恐る恐る下半身に目を向けた。
身につけていた黒いスキニーパンツ、少々キツめだったのがいけなかったのかも知れない。
何故だかパンツごと脱げていた。
「……」
「先輩! とりあえず隠して下さいよ!!」
「あぁ、悪い……」
枇々木が自分のシャツを脱いで俺に貸してくれた。
(どういうことだ……? )
俺は背の高い男を睨んだ。俺は確かに仲間になるとは言ったが、枇々木はひとことも言っていない。
「どうしました? 何か不満でもあります?」
性言語を知りたいのは山々だが、どうもおかしな雰囲気がする。遠くから観察して然るべき案件で、長居してはいけない場所ではないか。心の中に暗雲が立ち込める。
「ありますが、言いません」
俺は軽くお辞儀すると、下げられたズボンと下着を引き上げてベルトを適当に通し、枇々木の手首を掴んで走り出した。
「強制的に加入させられちまう! 逃げるぜ、枇々木!」
精神が病む前に、もしくは思考に染まりきってしまう前に脱出しなければ、研究が疎かになってしまう。俺の人生において研究がなくなってしまうなど、あってはならないのだ。
「きゃー!」
ところが、密林での逃走劇は上手くは行かなかった。熱帯雨林ならではの色鮮やかな動物や昆虫が俺たちの行く手を阻んだ上に、入り組まれた森の中は方向感覚を狂わせた。どこを走っても鬱蒼としていて、一向に開けた土地には出られない。
「痛っ」
「どうした?」
枇々木の脚は何らかの虫に刺され赤く腫れていた。
「大丈夫か?」
日本の清潔な住環境で暮らしてきた俺たちには、感染症やウイルスに対する免疫が少ない。北欧に行く予定だったから、狂犬病や破傷風の予防接種は受けていない。今俺たちは世界に二人きりだ。聞こえはロマンチックだが、病気やケガを患えば大変なことになってしまう。
「一回、引き返すとするか……」
渋々ながら、部族が上げていた煙を頼りに俺は枇々木をおぶって来た道を戻った。
夜もふけて、部族の入口にあった焚き火の火も消えかかっていた。先程まで相手をしてくれていたデカい男はいなくなっていて、数人の人間が地べたに腰を下ろし談笑していた。
俺は彼らに救急道具を貸して欲しいと頼んだが、顔を見合わせて首を傾げている。
刺された枇々木の脚を撫で、患部に何かを巻き付けるふりをしてみたが、ピンと来ていない様子で考え込んで、やがてどちらともなくお互いの身体を触り始めた。身体の一部ををサッと撫でつけ、額を人差し指でツンツンとつついている。
「これは……」
ボディーランゲージは、素早くて迷いがなかった。異様な光景だったが、神秘的にも感じられた。
「言語だ」
おそらく枇々木もそう考えただろう。綺麗な横顔で、まっすぐ絡みを見つめていた。何を伝えようとしていているのか分からなかったが、何かを伝えようと、真剣に向き合ってくれのだと。
「無理だな。染まりきっている」
辺りを見渡すと雑木林の奥に小さな人影を見つけた。四、五歳くらいの彼に笑いかければ、男の子も微笑み返してくれた。
「ここの子か?」
問えば、首を縦に振った。
「可愛いですね。あの子なら何か話せるかも知れませんね」
枇々木も目を細めた。
「そうだな」
男の子を目で追ってみれば、あちこちに自由に行ったり来たりしていた。
「明日こっそりあの子に聞いてみるか。代替医療の方法や、ここへ来た経緯」
俺たちは心に決めて、集落からさほど離れていない小さな洞窟に身を潜めた。背中に小石や枝がゴツゴツと当たり、稀にコウモリが出入りした。枇々木は柄に似合わず俺にしがみついて、横になって丸まった。
明日になれば、事態は動き出す。
学会は明日だが、俺は諦めてはいない。絶対に間に合わせるのだ!
狭い夜空を見上げた。大木にカラスがたくさん止まっていたことには気が付かなかった。
ザーザー降りの雨音で目が覚めた。お腹が鳴って、とりあえず食べられるものを探そうと洞窟の入口へとやってきたとき、つま先にゴロンと何かが当たった。
「……え?」
そこに転がっていたには、紛れもなくあの子どもだった。
呑気に構えていたつもりはなかった。だが、いよいよ警鐘が鳴った。
「何故、彼が?」
「“頷いた”からじゃないか。性言語以外の言葉を使用した」
男の子は青白く、手も足も重力に逆らうことなくぐったりと垂れ下がっている。
「そんな……」
枇々木は雨に打たれながら子どもの死を嘆いていた。
俺は洞窟の中で考え込んだ。男の子の死は悲しいが、俺たちにとってそれ以上の問題は性言語以外でのコミュニケーションが取れなくなったことだ。「うん」と頷いて同意を示した彼が唯一の口話の使い手だったのかも知れない。彼を失ったことは、俺たちがこれから野垂れ死にする可能性が高いということである。
俺は引き続き部族の中で会話のできる人間がいないか声をかけ、枇々木は雑木林の中を他に外の人間がいないか探し回った。
けれども収穫は得られず、ただ無駄に体力を消耗しただけだった。
雨が降り続いている。
死にはしないが、空腹と疲労でどうでもよくなってきた。またもや日が落ち、本日開催されたであろう学会は閉幕してしまったからだ。
「こんなことをするために、お金貯めたんじゃないのに……」
枇々木が膝を抱えて呟いた。俺も泣きたい気分だったが、不思議と涙は出なかった。彼女の柔らかそうな頬に涙が伝い、月夜ならば光り輝くのだろうと、朦朧とした頭に浮かんだ。
やはり俺は馬鹿なのだろう。ケチって高い飛行機を予約すれば学会に行けたものを。いや、学会に行きたいと言い出さなければ、こんな危険な目に遭わなかったのだから──
「いてっ」
後頭部にどこからともなく果物の実が投げられた。赤ん坊の頭くらいの大きさの実の匂いを嗅ぐと、柑橘類の瑞々しい香りがした。俺は瞬時にそそられた。
「枇々木、枇々木見ろ、オレンジだ」
「……」
「猿が落としたんだ。 ありがたやー! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「いや、どう見たって怪しい……んぐっ」
遠慮する枇々木の口に皮を剝いたオレンジを突っ込んだ。久しぶりに口にした味のする食べ物は、頭から足の先まで染み渡った。
「うっめー!」
俺は無我夢中でオレンジを頬張った。
もしかして俺も天に召されたのかも知れないと、時折思いながら。
寝落ちしてしまったようである。
ふと気がつくと、俺の周りを何人かが取り囲んでいた。筋肉量の少ない女性っぽい脚元である。
(他の部族か? )
顔を上げると、女性たちはワイワイ騒ぎ出した。左右それぞれの腕はガッチリ掴まれ、強引に立たせられた。
「な、何だ!?」
右隣にはグラマラスな女性が、左隣にはスレンダーな美女が俺を食い入るように見つめながら、どこかへ連れて行こうとしていた。
こんなシチュエーションに憧れたことがないとは言えないが、場所が密林奥地とは想定外である。
美女たちの巨乳が腕に触れ、本能的にビクッとする。
(男的には嬉しい……嬉しいけど、今じゃないだろう! )
「どうなってんだよー!!」
密林に、俺だけの声がこだました。
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