セクシュアル・ランゲージ 第一話

 ジャングルの奥地、蔦が生い茂った薄暗い雑木林の中で、日に焼けた大柄な男たちが俺を見下ろしていた。

 土の地面には血が滴り落ち、恐る恐る血の出どころに目を向ければ、後輩の枇々木《ひびき》が髪の毛を鷲掴みにされ、開けられた口には、本来あるはずのものがなくなっていた。

「舌が……!」

 どうしてこんなことになったのだ。ついこの間まで、普通に研究に勤しんでいたのに──!

 

 カタカタカタカタ……

 研究室に規則正しいキーボードの音が響く。わずかに開いたカーテンの隙間からは、明るい太陽の光が差し込んでいる。

 ふと、冷蔵庫に飲み物が入っていることを思い出して、休憩室にある冷蔵庫の扉を開けた。上段には栄養ドリンク、下段にはゼリー飲料、冷凍室にはアイスクリームがぎっしりと詰まっている。研究所に籠りがちな大学院生の、大切な日用品だ。

 俺はアイスクリームを手に取って、内ぶたをペリペリ剥がした。ちょっとお高いバニラアイスの甘い香りが、疲れた脳に染み渡る。俺はゴクリと喉を鳴らした。

「やはりこれだな、間違いない。ラクトアイスでもアイスミルクでもない、“アイスクリーム”本来の味だ。乳脂肪分も乳固形分も申し分なく、十分に役割を果たしている」

 パッケージに書かれている製造元を見れば、名の知れた有名企業の名前が載っていた。老舗企業で改良を重ねながら長年愛されているロングセラー商品である。

 企業努力に、思わず感嘆の声が漏れる。

「あぁ、本当に、素晴らしい創意工夫だ。同じものをこれだけ作り続けられるというのは並大抵のことではないのに、威張らず謙虚で。宣伝も゙控えめなのにも関わらず、誰もが知る商品で。……素晴らしい! 素晴らしいの極み!」

 一口舐めてみたら、ますます感動が大きくなった。

 俺は衝撃でうち震えた。

「俺もこんな研究成果を上げたい! 皆がアッと驚くような究極の研究がしたい!」

 

 俺のライフワーク且つの最高のレクリエーションは、研究をすることだ。世の中は知らないことで溢れている。未知の世界を探求していくことは、知的好奇心を満たしていくのだ。


「三ヶ嶋先輩、まだやってる」

 頬に何かひんやりとした物体が当たった。先程選ばれなかった栄養ドリンクを持って、耳の下で切り揃えた髪を茶色に染めた女性──枇々木狐月が哀れんだような眼差しでこっちを見ている。

「また、とは何だ。スマートフォンやテレビを見ている暇があるなら机に向かうのが院生の定めだろう。そういう君は何をしていたのだ? まさか、呑気に金曜日ロードショーでも見ていたのではあるまいな? そんな時間があるなら俺の論文でも読んで改善点や誤字脱字を指摘してくれと、いつも言ってるじゃないか」

 俺がため息をつきながら言うと、枇々木はさらに大きく息を吐いて、やれやれと言ったジェスチャーをしながら後ろに立っている酒田教授とアイコンタクトを取った。

「だ、そうですけどどう思います先生? 23歳なのにこんな調子で彼女もいないし、視野を広げた方がいいと思いません?」

「そうですね、せっかくここにも可愛い女の子がいると言うのに。ね、枇々木くん」

 教授が片目を瞑ってみせると、枇々木はかぁっと赤くなって口籠った。

「あ、あたしのことはどうだっていいんです! あたしはただ、一般論っていうか。そろそろ先輩にもモテ期が来たっていいと思ってるだけです!」

 何故か強い口調で言い放ち、枇々木は彼女自身のデスクに腰掛けた。

「三ヶ嶋くんは、研究が恋人ですからね。攻略するのは骨が折れるでしょうね」

「やめてくださいよ!」

 二人はケラケラ笑いながら、パソコンの電源ボタンを押した。機械的な起動音が静かに広がっていく。

 俺と枇々木、そして酒田教授は、大学で言語学を一緒に研究している仲間である。

「そうだ、三ヶ嶋くん。ついに待望の知らせが入ったんですよ」


 教授は書類の山から一枚の紙を取り出すと、俺たちによく見えるように高らかにかざした。

『中南米の密林で発見された、新たな言語について、知りたくはないですか?』

 

 それは、ヨーロッパで行われる学会へ参加するための航空機のチケットだった。

「それは……あの? 幻の、性言語《・・・》の!?」

「本当ですか先生!」

 俺と枇々木は同時に酒田教授を見た。

「ええ。間違いありません。ついに論文として発表されるのですよ!」

 胸が大きく脈売った。

 俺たちは文学部で言語学を専攻にしている。元々、言葉や異文化の背景には興味があり、様々な方向へアンテナを張っているのだが、近年衝撃的な噂を耳にしたのである。

 “性的な触れ合いを第一言語としている部族がいる”

 なんともセクシュアルで、破廉恥な人間たちが存在しているというのだ。

 言語学研究者たちの間では興味を引くための作り話ではないかと囁かれていたのだが、東南アジアの有識者がこの度、直に目撃したらしい。

「俺も行きたいっ! 行かせて下さい教授!」

 こんなに嫌らしくて興味をそそる文化の秘密を知る人物に、合わない理由がない。論文の文字をただ眺めているだけと、講演で生の声を直に見聞きするのとは雲泥の差だ。

 俺は目を輝かせていつの間にか前のめりになっていた。枇々木が冷めた目つきでこちらを見ているような気もするが、多分気のせいだろう。元からあんな目つきだったのだ。

 酒田教授は俺を一瞥したあと、にっこりと微笑んだ。

「駄目ですね」

 まさか、否定の言葉が出てくるとは思わないのだ。

「はぁっ!? なんでですか!! まさか性言語というジャンル柄18歳以上ですか!? 18歳にはなってますよ! 成人済みですよ! ……あ、もしかして、童貞だからですか!? だから行けないんですか!? 差別ですよ! 経験してないと行けないなんて、物凄い単語が飛び交うってことじゃないですか! クッソ! 行きたい、行きたい、行ぎだぃ゙ー!!」

「落ち着きなさい」

 教授は荒れ狂う俺に動じることなく優しく肩に手を置いた。枇々木は相変わらずの蔑んだ表情で俺を見ている。

「君の熱意はとても伝わりますが、これは極秘情報なんですよ。言語学で一定の評価を貰ったことのある人物しか参加できないことになっています。君は、まだこれからの人物でしょう、三ヶ嶋くん」

「クッ……!」

 俺は唇を噛み締めた。教授の言っていることは真理であり、変えることは不可能だ。教授の指に挟まれた青色の航空券がヒラヒラと俺を見下ろしている。

「……ちなみに、旅費は?」

「30万円程ですかね……いやぁ、結構しますよ。学生の君は逆に、行かなくて正解です。アルバイト代が飛んじゃいます」

「30万……」

 預金通帳を思い浮かべた。意識して溜め込んでいる訳ではないが、研究室に籠もっているので大きな買い物も投資もしたことがない。行けるのではないか。

「……デカい額ですね」

 そう思ったら、急にワクワクしてきた。

 学会での研究発表は誰の為に開かれるのか。年老いた勲章所持者でも、この分野に関しては頭空っぽの一般人でもない。俺だ。きっと俺のために開催されるのだ。

「俺も早く一人前の研究者になりたいです」

 こうなったら、自力で航空券をゲットして学会に潜り込むしかない。

 性言語とはどんなものであろうか。文法は? 接続詞は? 擬音は?

 知りたいことが次々と湧いてくる。こんなに興味をそそられるものを、黙って静観していられるだろうか。

 俺はスマートフォンを握りしめた。




 個別指導塾講師のバイトを二つ、家庭教師のバイトを三つ登録して、シフトを入れに入れまくった。ちなみにこの二つなのは、生徒が問題を解いている間に俺も研究に勤しむことができるからである。

 そうしてバイトと研究室を往復する日々を送り、ついに俺は目標を達成した。30万に諸費用を合わせた50万円を確保し、足取り軽く飛行機へ乗り込んだ。


 教授の乗り込んだ便と比べて格安航空なのが玉にキズだが、たいして問題ではない。性言語の学会に行けることこそが全てであり、ボロいホテルだとか料理が不味いとかは二の次なのだ。

 飛行機の小さな窓の外には、白い雲の下に雄大な山脈が広がっている。滅多に見られない光景を写真に残そうと、隣の席で枇々木狐月が熱心に撮影していた。

「君は暇なのか? 枇々木。何も君まで来なくてもよかったんだぞ」

 声をかければ、口を尖らせて振り向いた。

「あたしだって、研究するほど言語学が好きなんです! こんなチャンスないじゃないですか!」

「何しろ、みんな大好き性の話だしな!」

「大声出さないで下さい!」

 枇々木は二十歳になったばかりの、大きめでくりっとした瞳が印象的な小柄な女の子だ。今日でこそ糊が効いた七分袖のシャツにロングパンツという大人の女性の雰囲気を醸し出しているが、いつもはふんわりしたブラウスにスカートというスタイルが多く、まさか薄暗い研究室に入り浸っているとは思えないだろう。

 彼女もまた結構な言語学オタクなのだということを、俺と教授は知っている。


 しばらくして、機内サービスの飲み物が配られた。俺たちはせっかくの機会にお酒を頼んだ。赤ワインの芳醇な香りが鼻に広がる。非日常感が増してくる感じがする。目的は学会の傾聴、隣には話の合う女の子。なかなか悪くないシチュエーションである。


「隣が言語学の著名人だったら言うことなかったな」

「一言多いんです!!」

 酔いが回ってきて、実に快適な気分だ。ここのところバイトを詰めまくっていたから、脳みそが休まる暇がなかった。自然と瞼が落ちていく。たまにはこんな一日もいいかも知れない。


 目を閉じた。
 目を閉じると、情報は耳から入ってくる。 機内の遠くの方で、何やら誰かが言い争っているのが聞こえる。

「お止めください! 危険です!」

「そんなことは承知してるいる! 通せ!」

 バタバタと慌ただしい音が否応無しに脳内を駆け抜けた。

「……何っ!?」

 枇々木も思わず俺の腕を掴んだ。只事ではない事態に、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 再び目を開けば、武装した数人の大柄な男たちが、銃を持ち機内を占拠していた。

「キャー!」と、どこからか叫び声が上がり、枇々木も前席の背面に身を隠すように縮こまっている。

「ハイジャックか……」

「れ、冷静に言ってる場合ですか!?」

 それならば、やるべきことはひとつしかない。俺は立ち上がり、男たちの前へ躍り出た。

「話があるなら、俺が聞きますよ」

「は?」

 男たちは銃口を俺の方へ向けた。誰かの、息を呑む声が聞こえる。

「やはり、モデルガンか」

 まじまじと銃口を見つめれば、銃のカラーと同じ黒い板のようなものがあった。本物であれば決してないはずのそれは、殺傷能力がないことを示している。

 男たちへさらに詰め寄ると、中南米の地方の訛が聞こえてきた。

 中南米である。今、最も興味を持っているのは中南米の密林に住むという部族のことである。

 もしかして、彼らは仲間にすべきではないか。

「もしもし? あのー、ちょっとお尋ねしたいんですけど」

 酒田教授のような人の良さそうな笑顔を作り、彼らの訛りで話しかけてみれば、男たちは気を良くして俺の話に応じてくれた。

 なんだか、優しい。やはり定説のとおり、中南米人は陽気で朗らかなのだ。

「南半球の赤道あたりに住むという、奇妙な部族を聞いたことがあるかい? 言葉の代わりにボディーランゲージを巧みに操るとか」

「ボディーランゲージ?」

「そう。それも、単にジェスチャーを行っているのではない。裸の付き合いなんだそうなんだよ。老若男女関係なく、時には尻を突き合わせ、またある時は胸を揉むのだとか……」

「オーマイゴッド!!!」

 男たちは得体の知れぬカルチャーに雄叫びを上げた。

 しかし、ハイジャック犯は客室にいる男たちが全てではなかった。なかなか事が進まない状況にしびれを切らしたもう一人の男が、コックピットから叫んだ。

「まだかよ、うるっせーなぁ。この便をストックホルムに降ろす訳にはいかねぇっつうのに」

 (ストックホルム? )

 胸がざわついた。学会もスウェーデンの首都・ストックホルムで開催される。もしかしたら、学会参加者が多く搭乗している可能性もある。

 偶然だろうか。

 銃はニセモノにしろ、体格は俺の何倍も男らしい屈強な男たちであり、無謀に突っ込んでいくことは危険を伴う。しかし、このままいけば学会へは間に合わなくなってしまう。

 それだけは絶対に避けたい。

 俺は学会に潜り込むためだけに生きてきたのだ。

「機長! 大丈夫です! 大丈夫ですから予定通りに運航してください! ストックホルムまで飛ばしてください!」

 俺は日本語で思いっきり叫んだ。敵の人数は多いものの、銃がモデルガンである以上勝算はある。

「ストックホルムがダメだというのなら、近隣でもいいです! ……そうだ、ゴッドランド! ゴッドランドでもいいです! ヴィズビューに空港がありますよね、そこから確かフェリーが出てたはずです、そこから向かえば……いいと……」

「三ヶ嶋先輩!?」

 ふと、急激な眠気が襲ってきた。

 呂律が回らない。いったいどうしてしまったのだ。ハイジャック犯と戯れている暇なんてないのに。早いとこ目的地に行きたいのに。

「大丈夫ですか!? しっかりしてください! あたし、三ヶ嶋先輩だけが頼りなんですよ!」

 後方で枇々木が俺を呼ぶ声がする。
 俺は震える彼女の声に自分を奮い立たせ、必死の思いで重い瞼をこじ開けた。

「心配するな、俺が必ず性言語の講話に連れてってやる」

「先輩……」

 頼られるのも悪くない、と思った。研究に没頭することしか能がない俺は、研究分野以外とになると無知で世間知らずだ。引かれることはあっても、頼られることなんて滅多にない。

 一緒に、激レアな話を聞きたい。

「機長、聞いてますか……こいつらは、俺がなんとかしますから……時間を稼ぎます……だから……」



 論文というのは孤独な作業だ。
 大量の文章を読み漁り、見比べ、検討し、自分の論の根拠となる証拠を見出なければならない。大変な作業だ。それ故、新しい発見をしたときや仮説の証明が成り立ったときには天にも昇る心地である。

 性言語を発見した学者も、相当舞い上がっただろう。

 どんな気持ちだっただろう。

 新しい文化の証人となった心境は、どんな感覚なのだろう──






「ずいぶんヒョロいヤツだな」

「こいつ、ちゃんとついてんのか? え?」

 身体を揺さぶられ、俺は目を開けた。意地でも眠りたくなかったのだが、いつのまにか寝てしまっていたようだ。

 先程耳にした中南米の訛り交じりの英語で、さっきまでとは別の男たちが会話している。

「まぁ、ともかく助かった。これは礼だ」

 見たことのないデザインの硬貨が、男たちの間でやりとりされた。外国の物だろう。

 ここはいったいどこなのだろうか。

 手のひらにザラザラしたものが当たった。見れば、俺は地べたに直に座らされていた。

 そこでふと気がついた。

 こんなところで呑気に中南米文化を体験している訳にはいかないのである。

「おい、ここはどこだ? 俺たちは観光客ではない。一刻も早くストックホルムへ向かいたいのだが」

「黙れ!」

 唐突に男が制止しした。気軽に口を開けないということは、もしかしてちょっとヤバい立場なのかも知れない。

 俺は枇々木の姿を探した。

 (枇々木はどこだ? 他の乗客は? )

 見渡せば、異国の暗い雑木林の中にいるようであった。辺りにはバニラやココナッツ、ジャスミンのような香りが漂い、建築物のようなものは見当たらない。月の光がささやかに入る他は、周辺は暗闇に包まれている。

「枇々木? 枇々木!!」

「先輩!」

 名を呼べば、暗闇の奥から聞き慣れた高い声がした。

「枇々木!」

 俺はとりあえず彼女の元へ行こうと、乾燥した地面から立ち上がった。目が暗闇に慣れてきた。雑木林の奥には、木やツタで原始的に作られた居住地のようなものが見えた。


 しかし、俺は歩みを止めた。

 眼前で繰り広げられている光景に、言葉を失った。

「え……」

「喋るなって言ってるだろ!」

 追いかけてきた男が木の棒のようもので俺の頭を叩いたが、それどころじゃなかった。

「これは……」

 ある男女は、指を絡ませながら足をすり合わせていた。

 横の女性たちは、いい大人だというのに長い髪の毛を結い合いっこしていた。

 部屋の奥では、女性に腕を揉まれながら女性の腹部をつねる男がいた。

「……性言語……?」

 ポロッとこぼれた呟きだったが、見逃してはくれなかった。

「いかにも」

 誰かが手のひらをパンッと重ね合わせ、鋭く刺さるような声がした。長身で肌の白い声の主は、腕の中に枇々木を抱え込んでいる。

 (人質に取られたか……)

 俺は舌打ちした。早く学会に行きたいが、ここに枇々木を置いていく訳にはいかない。

 それに……ここは長年待ち望んでいた『性言語を操る部族』そのものなのだ!!


 さっきから見てはいけないものを見せられているが、彼らに恥じらう様子や戸惑いは感じられない。つまり、皆『言語』として意思を伝え合っているだけなのだ。

 (本当に存在していたのだ。性を言葉にしている幻の民族が……! )

 男は眉一つ動かさずに言った。

「ここは性の楽園、エレンダー帝國です。あなたも仲間になりましょう」


 差し伸べられた手の先は、楽園か、地獄か。
 遥か遠い国から来た俺には分かるはずもなかったが、選択肢はひとつしかなかった。

 心臓が高鳴った。


「喜んで」


 俺が実際にこの目で見てやるぜ!

 性言語の全てを解き明かしてみせる!


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