マルコの福音書12章1-12節のメッセージの感想
今日取り上げるディボーションメッセージはこちらになります。
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このメッセージの中で、2点印象に残ったことがありました。
一つは、エルサレム神殿の祭司長たち、律法学者たちはイエス様を殺そうとしていたわけですが、私にもそのような心があること、
そして、同時にイエス様についていった群衆のようにイエス様の教えに驚嘆する心も持ち合わせているということです。
ここで、私が思い出したのはローマ書7章のパウロの葛藤です。
パウロはイエス様を信じていたにも関わらず、良いことをすることを望んでいたのに悪いことをすることに悩み果てていました。
イエス様を信じている人なら、自分の中にイエス様を殺そうと付け狙う自分がいるとは思えないでしょう。
私も思いたくありません。
ですが、自分自身のやっていることを考えた時に、怒り・憎しみ・他人の幸せを欲しがる貪欲さが滲み出ているのです。
優しさや愛情をもらえばもらうほど、「それ以上のもの」を求めてしまうのです。
つまり、貪りという罪、悪い心になってしまっているのです。
だからこそ、私は今、神様の方を向いて原点に戻る必要があります。
何か特別に新しいことをするのではなく、今まで続けてきた、礼拝に参加し続ける「礼拝化」、福音を聴き続けてキリストのご人格に変えられる「福音化」に戻って、ただ礼拝と祈りと学びを続けていくことに焦点を当てるべきだと思いました。
二つ目は、神の言葉、つまり福音のメッセージを聞いても、ただ聞いただけの人とキリストを信じて聞いた人に分かれるということです。
私はどちらも体験しています。
説教を聞いて、思ったことをシェアする時に、自分自身の現在の考えが悪い方向に行っていることに気付き、悔い改めという神様に対する「ごめんなさい」に繋がることもあれば、
感想がなくて無理やり思ったことを共有しようとすることが私にはあります。
ですが、無理に感想を言うことをしていたら、私の感想を聞いた人が戸惑ってしまうのです。
キリストに心を触れられていないことが、聞いている人たちにはすぐに分かってしまうからです。
そのような時は、説教が理解出来なくて感想が出てこないと言えば良いと教えられていますが、なかなか実践できていません。
自分を取り繕うことをやめたいです。
こんな感じで今日のディボーションメッセージを聞いて思いました。
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