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教会の説教に対する思い

教会に所属して交わりをしていると、教会の人たちの説教の聞き方は、人によって全然違うなと思います。

過去には、神の言葉を信仰で捉えるのではなく、仕事と直結させて、「仕事が上手くいくように祈ってください。」と言う人がいたり、説教を聞いて、「自分はこんなに苦労した」と自分語りをする人がいたり…

かく言う私も、最近になるまで、説教をどういう風に捉えたらいいのか分かりませんでした。
他の人と自分の関係で捉えようとしたり…

ですが、説教は自分と説教者を通した神との「対話」です。
ですから、説教に対する感想は自分自身が神にどう語られたか、過去・現在・未来への考え方がどう取り扱われたかということを話すことであります。
神様の一方的な言葉という恵みを、蛇のように賢く、鳩のように素直な心で受け取って初めて、説教に対して向き合えることが出来るのです。
もちろん、ここでは説教で福音がきちんと語られていることを前提でお話しています。

"ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」"

ルカの福音書 8章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私は所属教会で○年間説教を聞き続けています。
未信者時代はずっと説教中は寝ていましたが、洗礼式の日になって、一緒に洗礼を受けた人の説教に対する態度(説教を聞いてメモを取っている姿)を見て、私は初めて、「あ、説教ってメモを取って勉強する時間なんだ」と知って、それからは、少しずつメモを取り始めました。
今は、語られる全ての言葉をメモする勢いで説教を聞いています。

この前にあったことですが、私が説教の感想をツイートし、その中で「私は虫けらのような存在だと、体調を崩して何も出来なかったことを通して思った。説教でもそう語られていた。」というようなことを発言したら、
キリスト教に躓いた人から、「あなたは虫けらなんかじゃない。そんな言葉をまともに受け止めないで」と言われました。
私はその言葉にとても怒りを感じました。

どうしてでしょうか?

それは、今まで私がこれは福音だと思って聞き、今まで私の病気に対して心が折れないように支えてくれていた説教、励ましをたくさん受けた説教を、一度も私たちの礼拝に参加したことがない人に否定されたからです。

私は、礼拝を休んだことがありません。どんな時でも、牧師と直前まで喧嘩をしていても、礼拝には参加し続けていました。
説教に対しては、熱心に聞き続けて、苦手な交わりもずっと参加し続けました。
それほど、私は神の言葉に頼るしかない人間なのです。

時々、牧師の説教をTwitterで批判したりする人がいるそうです。
前述したように、私の所属教会の説教も、批判されました。

私はそのようなことはするべきだと思いません。
福音が語られていないなら話は別ですが、自分にとって都合の悪いことでも聞く耳を持つべきです。
「神にこんな良いことをされた!ハッピーハレルヤ!」と言うよりも、「私は神様の言葉を聞いて、こんなに罪人の頭でしかないと思わされました。私は純粋な福音の香油を汚すハエみたいな人間です。」と、砕かれて低くされた人間こそが、聖書の神様の喜ばれる人ではないでしょうか?

カトリックには「十字架の道行」という祈りがあります。

最近、私は夫に喧嘩をふっかけてしまい、互いに険悪な雰囲気になって、私自身も憎しみの言葉ばかりが心の中に浮かび上がって、しばらく全く口を利きませんでした。
その時に、神様に頼りたくて、十字架の道行を祈りました。
カトリック中央協議会出版の「日々の祈り 改訂版第二版」に書かれている「十字架の道行」の第三留と呼ばれる箇所には「自分の罪の重さに気付き、神の御前に身をかがめて赦しを願うことができますように。」と書かれています。
私はその箇所を読んだ時に、自分のやったことの罪に、自分の愚かさに気付かされました。
それから、自分のしでかしたことで謝る際に、夫から厳しい言葉をかけられたとしても、誠実に謝り続けようと思えるようになりました。

あの時は、実際に自分の中の怒り憎しみが砕かれた感覚がし、罪を認めざるを得ませんでした。
ですが、砕かれた時、痛みを感じたのでもなく、自分の罪を認めようという思いだけがありました。
だから、夫にはその後きちんと謝って、夫からは「よく自分の罪に気付けて謝ることが出来たね、偉いね」と優しい言葉をかけてくれて励まされました。
その時の喜びと自分を縛る自分自身の憎悪からの解放感はとてつもないものでした。

ですから、神の前にへりくだることが、どれほど神にとって尊いことか教えられました。

その経験を踏まえて、私は砕かれて低くされた人こそ神様に喜ばれる人だと書いたのです。

"一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」"

ルカの福音書 18章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

自分の耳に心地よい説教だけを聞くのはどれほど、簡単なことでしょう。
しかし、それに甘んじても、そこに神の力は働くでしょうか。

"というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。"

テモテへの手紙 第二 4章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

決して、説教で語られる言葉を自己正当化に利用したり、他人に当てはめたりしてはいけません。
説教は「私」自身に語られているものです。
たとえ、耳が痛くなる言葉でも、聞くべきです。

今は聞くことの飢饉が起きているように思えます。
聖書の言葉さえも他人に当てはめたり、自分のこととして受け止められない人がいます。

教皇フランシスコがこのように言っています。

また、だれもが身に覚えのある誘惑は、そのテキスト(聖書)が示すのはほかの人のことだと考え、自分の生活に当てはめようとはしないというものです。

テキストに特有のメッセージを骨抜きにしてしまうための口実を見付けることです。

福音の喜び
教皇フランシスコ

一度、自分のことを吟味したいものです。

"見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。"

アモス書 8章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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