2023年8月5日 主日礼拝説教の感想
主日礼拝を終えての感想です。
私は何年も教会にいて、礼拝にも休まず参加して、いつも説教を聴いて、それでも分かっていないことがありました。
それは、説教の核が何たるかということです。
説教内のことですので、説教の核の詳細は書きません。
説教者の一番伝えたいことを私は汲み取ることが出来ず、説教の言葉に共感するだけの、キリスト信仰で学んだ新しい発見ではなく、自分の感情を交わりの中でシェアしていたと思いました。
そのため、メッセージを深く理解するとか、自分の罪を教えられて、それを吟味することがなかったので、非常に薄っぺらな信仰生活と、なかなか受肉されない聖言という状態が続いていたように感じます。
それで、私はその説教の一番重要なところを教えられて、そこから説教で受けたことを考えました。
聖書に出てくる「つまずき」という言葉には2種類のギリシャ語があるようです。
①プロスコマトス→動詞型になるとプロスコマ→「衝突する」の意
ローマ書9章32節の「つまずきの石」の原語
②スカンダロン→「罠」の意
ガラテヤ書5章11節の十字架の「つまずき」の原語
この2つのつまずきの中で私はプロスコマトスという「衝突する」に注目しました。
最近、私は家族に聞いてもらうために、stand.fmで聖書朗読をしたものを送りつけていました。
しかし、この説教の中で、大変な間違いに気付きました。
「stand.fmで聖書朗読をしてもいいのではないか?」という提案そのものは伝道者からアドバイスをいただいたものです。
ですが、私は大きな思い違いをしていて、それを家族に送ろうと勝手に決めたのです。
本来ならば、そのような活動は私が一人で決めるのではなく、教会の交わりの中で相談して、祈ってもらって決めるものです。
しかし、私は単独で突っ走ってしまいました。
ここに、私の罪があることを知りました。
それは、神様との個人的なやりとりや兄弟姉妹との祈りの交わりを通して、神様の御心を知ろうともせずに、独断で自分が良いと思う行いをしてしまったことです。
「自分自身の力で、自分自身の意欲や衝動で、キリストに良い行いで走っていってキリストにぶつかって躓いてしまう」。
これは、私が書いた説教メモにあった一文です。
自分でやろうとすると、そして、衝動などといったもので行いをすると、キリストにぶつかって粉々になるのです。
私はその状態の自分を「暴走列車」と揶揄しました。
ですが、この説教で私のやろうとしていることが、御心かどうかすら分からないもので、一歩踏み間違えればそれこそ、「罠」や「衝突」というつまずきに繋がる恐ろしいものだと分かった時、その行いはやめようと決めました。
神様は良い行いも悪い行いも、人間から出たものは全て裁かれます。
私も実際に家族に対する伝道は、家族とのコミュニケーションも取れるし、良いだろうと思い込んでいました。
しかし、それで自分自身の信仰がキリストをかしらとする教会から離れ去ってしまえば、全てが水泡に帰すものです。
だから、教会の交わりの中で、祈ってもらったり、時間をかけて吟味するべきなのです。
今回、私はそれを怠ったため、これからは聖言を通して、自分に示されたことをしようと思い至りました。
私たちの教会の説教や司牧は一見厳しく思えます。
ですが、私はこれほど優しい教会や説教はないと思います。
今回の説教では、本来私たち聞き手が考えるべき説教の聞き方を、私たちの聖言を聞くことの出来ない愚かさのために、答えを教えてくださった。
これは、これだけではなくメッセージの全てがそうですが、伝道者の個人的な言葉ではなく、神が分からずやの私たちに、神ご自身が求めていることを語られたのだと信じています。
私は関係ないと思っていたアモス書の「主のことばを聞くことの飢饉」が実は自分に起きていたことを知って驚愕でした。
私たちの教会では、罪を犯した人でも、その人が罪を悔い改めるならば、絶対に赦されて仲直りしますし、礼拝に来たらそれで良しとする教会です。
全部何度も体験している私が保証します。
だから、この説教には私は感謝しました。
同時に伝道者に申し訳ないと思いました。
私は何年も教会の礼拝に出ていて、まるで説教が分かっていなかった。
交わりの時にどれだけガッカリさせただろうと思うと、申し訳なくて仕方ないです。
ですが、これからは、学んだことを次に生かしたいと思います。
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