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ダビデとソロモンの晩年

詩篇51篇が今日の通読箇所であった。
ダビデの悔いた心を綴った祈りに「アーメン」と心の中で思いながら、ふと、気になったのは、ダビデの晩年であった。

ダビデの晩年のことを私はあまり気に留めていなかった。むしろ、知恵の人であったのに、神に背いたソロモンの晩年の方が印象深かった。

なぜ、気になったのか。
それは、ダビデの晩年は、私にとっては「幸せそうじゃない」晩年であった。
そう思った箇所を挙げたい。

[列王記 第一 1:1,2,3,4]

ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。
家来たちは王に言った。「王のために一人の若い処女を探し、御前に仕えて世話をするようにし、王の懐に寝させて王が温まるようにいたしましょう。」
こうして彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を探し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。
この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

これは、年老いたダビデのために、非常に美しい処女が遣わされた箇所である。その女は処女であると書かれている通り、未婚で若い女であったと予想出来る。

しかし、ダビデはその娘に手を出すことはなく死んでしまった。
普通の男性ならば、女性と結ばれるはずだと私は考えたが、ダビデは何もしなかった。

けれども、女性には何もしなかったが、ダビデが死ぬ前にやり遂げたことがある。
それは、王位の継承だ。
アドニヤという、おそらくダビデの次男であろう人物が野心を抱いて王になろうとした。
だが、そうなると、ソロモンとその母バテ・シェバの命が危うかった。

詳細は省くが、先ほどの引用箇所と同じ、第一列王記1章を読んでいただくと、どういう経緯でそのようになったのかが分かる。

そして、バテ・シェバと預言者ナタンの進言によって、ダビデはソロモンを王位継承者として誓っていたことを話した。

[列王記 第一 1:30]

私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

そして、ダビデはソロモンを王とし、主との約束をソロモンに伝えて、最後を迎えた。

対して、ソロモンの晩年はどうだったか。

[列王記 第一 11:3,4]

彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

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そして、ソロモンは神からこのように告げられる。

[列王記 第一 11:11,12,13]

そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。
しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。
ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」

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このようにして、イスラエル王国の分裂を神はソロモンに語った。
そして、そのことは実現し、ソロモンの死後に北イスラエル王国と南ユダ王国にイスラエルの民は分裂してしまった。

これが、ダビデとソロモンの晩年である。


私がなぜ、この親子の晩年に目を留めたか?

それは、一見、人間的な基準で見ると、ダビデの晩年は力がなく、寂しい最後を迎えたように見えるが、ソロモンは何人もの女性を侍らせて、本人は満たされた最後を迎えたように見える。

しかし、この見方はとてもヒューマニズムな見方である。

なぜなら、今に至るまで、ダビデはこのような晩年を迎え、生前も何人もの血を流すほどの苦労をしていたが、「神の人」とか、「ダビデの子、イエス・キリスト」と、ダビデは主と密接に繋がっているからだ。

対して、ソロモンは旧約聖書の「諸書」を書いた人物でもあるが、「知恵の人」とは呼ばれても、「神の人」とは呼ばれにくい。

そして何より、信仰の人として見られているのはダビデの方だ。

それは、ソロモンは晩年に「王妃と側女たちの影響で偶像崇拝に走った」という、たった一つの「神への背き」が原因だったのではないか。

ダビデは晩年でも、主のことを忘れなかった。
それは、第一列王記を読んだら明白だろう。

だから、私はこのように考えた。

ダビデは確かに晩年は元気がなく、不幸せなように見えるかもしれない。
しかし、彼の心は主と共にあり、常に悔いた心があったからこそ、主は彼を心に留められ、「ダビデの血筋から」主はお生まれになったと聖書で書かれるようになったのだと思うのだ。

それで、私はこうも考える。

たとえ、地上で側から見たら不幸に思えるような人生を送っていても、主と結ばれている人は「神の人」であり、「信仰の人」であると。
だから、私たちはどんなに元気がなくても、立ち直って、キリストを信じ続けて、生きていこう。
そうして私たちは、主から「神の人」どころか、「私の愛する子」と呼ばれるのである。

[ローマ人への手紙 8:14]

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

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[マルコの福音書 1:11]

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

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そこに私は、この世の幸せを掴むのではなく、主にある幸せと、天の御国を見る。
キリストにあって幸せとはそういうことではないだろうか。

一方で、全てが満たされていて羨ましいような生活をしている人でも、神の目にはどのように見えているかは分からない。

最後に私が語ったことをそのまま描いている福音書の箇所を引用する。

[ルカの福音書 16:19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31]

 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

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