詩篇51篇が今日の通読箇所であった。
ダビデの悔いた心を綴った祈りに「アーメン」と心の中で思いながら、ふと、気になったのは、ダビデの晩年であった。
ダビデの晩年のことを私はあまり気に留めていなかった。むしろ、知恵の人であったのに、神に背いたソロモンの晩年の方が印象深かった。
なぜ、気になったのか。
それは、ダビデの晩年は、私にとっては「幸せそうじゃない」晩年であった。
そう思った箇所を挙げたい。
これは、年老いたダビデのために、非常に美しい処女が遣わされた箇所である。その女は処女であると書かれている通り、未婚で若い女であったと予想出来る。
しかし、ダビデはその娘に手を出すことはなく死んでしまった。
普通の男性ならば、女性と結ばれるはずだと私は考えたが、ダビデは何もしなかった。
けれども、女性には何もしなかったが、ダビデが死ぬ前にやり遂げたことがある。
それは、王位の継承だ。
アドニヤという、おそらくダビデの次男であろう人物が野心を抱いて王になろうとした。
だが、そうなると、ソロモンとその母バテ・シェバの命が危うかった。
詳細は省くが、先ほどの引用箇所と同じ、第一列王記1章を読んでいただくと、どういう経緯でそのようになったのかが分かる。
そして、バテ・シェバと預言者ナタンの進言によって、ダビデはソロモンを王位継承者として誓っていたことを話した。
そして、ダビデはソロモンを王とし、主との約束をソロモンに伝えて、最後を迎えた。
対して、ソロモンの晩年はどうだったか。
そして、ソロモンは神からこのように告げられる。
このようにして、イスラエル王国の分裂を神はソロモンに語った。
そして、そのことは実現し、ソロモンの死後に北イスラエル王国と南ユダ王国にイスラエルの民は分裂してしまった。
これが、ダビデとソロモンの晩年である。
私がなぜ、この親子の晩年に目を留めたか?
それは、一見、人間的な基準で見ると、ダビデの晩年は力がなく、寂しい最後を迎えたように見えるが、ソロモンは何人もの女性を侍らせて、本人は満たされた最後を迎えたように見える。
しかし、この見方はとてもヒューマニズムな見方である。
なぜなら、今に至るまで、ダビデはこのような晩年を迎え、生前も何人もの血を流すほどの苦労をしていたが、「神の人」とか、「ダビデの子、イエス・キリスト」と、ダビデは主と密接に繋がっているからだ。
対して、ソロモンは旧約聖書の「諸書」を書いた人物でもあるが、「知恵の人」とは呼ばれても、「神の人」とは呼ばれにくい。
そして何より、信仰の人として見られているのはダビデの方だ。
それは、ソロモンは晩年に「王妃と側女たちの影響で偶像崇拝に走った」という、たった一つの「神への背き」が原因だったのではないか。
ダビデは晩年でも、主のことを忘れなかった。
それは、第一列王記を読んだら明白だろう。
だから、私はこのように考えた。
ダビデは確かに晩年は元気がなく、不幸せなように見えるかもしれない。
しかし、彼の心は主と共にあり、常に悔いた心があったからこそ、主は彼を心に留められ、「ダビデの血筋から」主はお生まれになったと聖書で書かれるようになったのだと思うのだ。
それで、私はこうも考える。
たとえ、地上で側から見たら不幸に思えるような人生を送っていても、主と結ばれている人は「神の人」であり、「信仰の人」であると。
だから、私たちはどんなに元気がなくても、立ち直って、キリストを信じ続けて、生きていこう。
そうして私たちは、主から「神の人」どころか、「私の愛する子」と呼ばれるのである。
そこに私は、この世の幸せを掴むのではなく、主にある幸せと、天の御国を見る。
キリストにあって幸せとはそういうことではないだろうか。
一方で、全てが満たされていて羨ましいような生活をしている人でも、神の目にはどのように見えているかは分からない。
最後に私が語ったことをそのまま描いている福音書の箇所を引用する。