本当に自分の事が嫌いな人がすべき行動

まず、この記事で扱う「自分の事が嫌いな人」というのは哲学的ゾンビなどと一緒で実際には存在しないものだと思っている。その理由をまず書いてみる。
確かに、自己肯定感の低い人が「自分の事嫌いなんだよね」といったセリフをよく口にしているけれど、ほとんどの場合、これで言及されているのは「現在の自分」だと思う。「人とうまく接することができない自分」とか、「勉強やスポーツなどがうまくできない自分」であって、「自分という存在そのもの」に対して嫌いという感情が向いているわけではないんじゃないか。「何にもできない自分が嫌いだ」という人がいても、自分の中の何もできないという属性を嫌っているのであって、理由なく自分のことを嫌いになれる人は存在しないと思う。これは後の内容にも関わってくるが、一つの対象として自分自身に嫌いという感情を持っている人は、何かを食べるとか呼吸をするといった自分の生存に有利な行動や、自分に利益がある行動というものが(少なくとも積極的には)できなくなると思う。
なので、この記事の目的は、自分の事が嫌いな人というのがもし存在するとしたら、その人はどんな行動をしているべきか、ということについて考えていくことだ。
そもそも、嫌いという感情は少し曖昧だと思うので、ここでは、対象の存在や行動全てに理由を必要とせずに嫌悪感を覚えたり、相手が不幸になると自分が喜んだり、相手に幸運があると自分が嫌な気持ちになったりする、というようなものだと決めておく。嫌いな人物に対しては大体の人が「キモい」などといって避けたり、相手の不幸を聞くと「ざまあ」といった感情が湧いてくると思う。
上の条件で自分の事が嫌いな人について考えてみると、まず、食べる、寝るなどの自分の生命を保つような行動や、ものを買う、人と話すといった自分の快楽を増やす行動ができなくなる。自分が生き続けるという事が気に入らないし、自分が幸せになるということにすらムカついてくるからだ。そして、自分が幸福になるための行動ができなくなった後は、自殺することもできなくなると思う。なぜなら、死んでしまうとその後の苦痛や不幸から自分が逃れてしまうことになるからだ。自分が不幸になることを「自分が」望んでいるということまで考えると、不幸になろうという行動すら快楽を得ようとしているのではないか、という疑問もあると思うけれど、おそらく苦痛を求めるのをやめようとはならないと思う。なぜなら、その方が嫌いな奴が苦しむからだ。しかし死んで逃げることも、生きようとすることもできないので、結局は自分にひたすら最大限の苦痛を与えながら衰弱して死んでいく、あたりが落とし所になると思う。なので結論としては、「自分の苦痛が最大化されるように、できるだけ長く多く苦しみながら衰弱死する」なんじゃないか。
もちろんこの記事を書いたり読んだりしている時点で、自分の快楽のための行動をしていると思うので、もし本当に自分の事が嫌いな人というのがいたとしてもこの記事を見ることはできないはずだ。


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