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【日記】正体

 果物は高い。ドライフルーツも高い。そのためにお菓子というものがあったのに、このところ350円をゆうに超える。
 長時間残業があったわけでもないのに、ゾンビのように働くのをやめた自分の頭が、スーパーで栗を見つけた。乾き物の棚の、下から2段目くらいにあった。ビーフジャーキーと酢昆布と、チーズと乾いた豆類の間でちょこんと鳴りを潜めていた。
 準チョコレート製品やクッキーなどの袋菓子と栗の値段はあまり変わらなかった。ゾンビの私はほぼ垂直に膝を曲げて栗の入った袋取り上げ、カゴに入れた。

 栗。おすわりを覚えたばかりの赤んぼうのようにコロンとしていて、つやつやしている。噛むたびに口の中の立方体が2つ3つと増えていき、舌の上で転がり遊ぶ。その甘さは頭より先に胸のあたりに広がり、冬のいちごにも勝るかわいさである。

 室温約10度。暖房をつけるより先に、ビニール袋から栗を取り出した。大袋の中に銀色の袋が3つあり、それぞれに親指ほどの茶色い栗がごろごろと入っていた。銀色の袋は手のひらほどあり、小指の第一関節くらいまで栗がいたのだ。
 これだけ入ってればクッキーなどより保つかもしれない。小麦製品は食べれば食べるほどお腹が空くので、1度開ければ翌日にはもうない。2日で1つの銀袋を消費するとして、6日も保管できる。当たりの買い物だった。

 冷たいシンクに寄りかかり、裸んぼうの栗を口に放る。つるっと舌の上を転がり、喉の奥まで滑り落ちそうな栗を、舌根のあたりで止める。味のしないスーパーボールみたいな感触を、奥歯で噛み砕くとひとたび栗に変化するのだった。ぽろぽろと、ゆで卵の黄身にも似た粒々が口に広がる。

 いや、しかし。なんだ。

 口の中の栗と記憶の中にある栗が一致せず、整合性を高めるため次々と栗を口に放る。しかし、食べれば食べるほど手元の栗は栗像からかけ離れていく。舌から脳に伝わる信号が、「これは栗です」から「これはなんですか?」に変わり、質問を受けた脳も答えあぐねて黙った。
 5、6個食べたところで今食べてるものは栗で、栗に幻想を抱いていたのは私という結論が出た。

 食した栗は全然甘くない。さらに、口の中で粉砕された栗には圧迫感がある。ゆで卵の中でも非常に固く茹でた黄身に近い食感で、もそもそとした半液状の塊は口腔全体を塞ぐ。

 私が栗だと思い込んで食していた食べものは、紛れもなく砂糖菓子だった。栗ご飯を炊くために購入したパックも、あれは砂糖菓子だった。
 世の中に出回っている栗は、トゲの殻から解かれたほくほくの赤んぼうなどではなく、砂糖漬けにされたゾンビだ。陳列棚に並ぶ頃には栗の意思などなく、「私はおいしいです」という看板を持って時が過ぎるのを待っている。

 これが本物の栗か。セメントのごとく喉に張りつき呼吸を妨げる食べものを、必死の思いで飲み下しながら記憶を改めた。思えば殻を剥いただけの栗など、20年前に食べたか食べてないかくらいの線だ。毎年、栗が描かれた紙箱のお菓子や、モンブランなどを嬉々として買っていたから、栗の味が実は砂糖などとは知らなかった。砂糖を栗だと思っていた。

 栗とはまるで関係ないが、こだわりある人の本物を見つける力には圧倒される。
 つい最近、友人と馴染みのない街を歩いていた。友人はある店の名前を目にすると、「ここ気になってて」とそのジュエリーショップに足を向けた。ブライダルでも、広告で見かける海外ブランドでもない、密やかで雅やかな店だった。
 友人が言うならと、アヒルの雛のごとく不恰好な大股で後ろをついていった。彼女が指差したジュエリーは、天然の1点ものだった。そのショップのジュエリーを身につけた店員さんが奥からにこやかに歩いてきた。威容さなどは全くなく、「健康」と表すのがぴったりな晴れやかさが、かえって私を萎縮させた。
 友人は「オンラインで見てて」「この気泡がかわいい」などとひと回り上であろう店員さんに話していた。店員さんも「見つけてもらえて嬉しい」といった顔で、さまざまな石を勧めていた。買わなくていい、知ってほしいという心からのもてなしに、人としての余裕を感じて私は後ずさった。
 どうせ失くすから量販店でしかアクセサリーは買わない! 3日前に決めたばかりだった。

 天然石を睨めっこしていた友人は、「こうして買い始めるとキリがない」と店を出た。
 彼女の好きなものは全て上質で、たくさん作られておらず、手作り感もなく、秘境から見つけてきたとしか言えないものばかりだ。ディスカバリーのプロフェッショナルだ。そのうえ、自分が心の底から愛してやまないものしか買わない。見栄のために購入するのではなく、好きだったから金を媒介に自宅へ招いている。自分をよく知っている人はセンスがいい。

 私には大して好き嫌いがない。そこが私の利点だと思っていたのだが、好き嫌いがないと安価な量産品に手を出しがちで、安価な量産品は望んで買ったものではないから乾きも満たされず、人より多く買ってしまう。例えば栗を食べたいと思ったとき、「でも加工されたこっちの方が安くていっぱい入ってる。売り出されてるからこっちの方が安牌」と結局栗を買わない。そういう積み重ねで、量産型の人間がここにいて、さらにあまりにも量産型のため逆に馴染めていない。尖ったところがないので、誰も引っかからない。それで満足しているので、心身ともに丸さは増すばかりだ。

 私が私らしかった時期を思うと恥ずかしながらオタ活に熱を入れていたときで、オタ活は極めてはいなかったのだが、常にハイで趣味以外どうでもよくて奔放だった。この話は向こう20年します。
 私、二次創作が好き。同じものを読んだとき、別の感想が生まれるその過程が好き。プロセスフードに手を伸ばしがちなのはこのせいかもしれない。違うか。

 栗をもちゃもちゃと胃に押しやりながら、私に足りないのはこだわることだなと思った。多少出費が嵩んでも、やりたいと思ったら即実行する。2024年の目標はこれだ。手始めに上製本を作りたい。
 ありがとう、大しておいしくない栗。味気ないまっさらな栗の方がおいしい気がしてきたよ。

追記:そういえば一眼レフを買った。家賃2ヶ月分の大枚を叩いたのに、まるで使いこなせない。トレーナーレベルが低いと指示を聞いてくれないポケモンってこれか。

まずピントが合わない
オラファー・エリアソン展に行った。
楽しかったし、作り手が賢かった。
文字イメージgraphic展に行って
カラオケ行こ!を見て
(写真はイメージです)

 齋藤孝先生の本を読んで、「人生の鍵はこだわりや……」となった。

おしまい

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