忘れ得ぬ人々・第9回「ミーハー講師控室」(後編)

午後3時半になり、講義を開始した。5時半までの2時間、ノンストップで講義をして、あっという間に終わった。
受講生のみなさんが教室を出たあと、私が教室を出ると、廊下に人びとが列を作って並んでいた。並んでいる人の先を見ると、篠井さんがサイン会をしている。並んでいるのは全員女性で、どうやら篠井さんの講座を聴きに来た受講生の方々のようである。
担当のMさんが私に言う。
「よかった。まだ篠井先生、いらっしゃいましたね。少しお待ちいただければ、あとでご紹介いたしますよ」
その言葉に、ふたたび私は恐縮した。
「いえ、その…。それより、…私もこのサイン会の列に並んでもよろしいでしょうか」
一瞬、担当のMさんはとまどった顔をされた。それはそうだろう。講師がサイン会をする、というのは、ここではよくあることなのだろうが、講師がほかの講師のサイン会に並ぶ、というのは、おそらく前代未聞だからである。
「大丈夫ですよ。並んでください。何かサインを書いていただく紙をお持ちでしょうか」
私は、カバンから大学ノートを取り出した。
「これにサインしてもらおうと思うんですが、失礼にあたらないでしょうか?」
「大丈夫だと思いますよ」とMさん。
それにしても、サイン会の列に並んでいるのは、全員女性である。その中で一人、おじさんが並んでいるのは、なんとなく恥ずかしい。
他の人は、どんなモノにサインをしてもらっているのだろう?とのぞいてみると、手帳であったり、携帯電話であったり、本日の受講カードであったり、とさまざまである。なかには、テキストとおぼしき泉鏡花の小説の文庫本にサインをしてもらっている人もいる。
篠井さんは、受講生たちが持ってきた思い思いのモノにサインをしながら、ひとりひとりに丁寧に言葉をかけておられた。
受講生たちのサインがすべて終わり、列のいちばん最後は私である。
「こちら、先ほどまで、隣の教室で講義されていた、講師の三上先生です」Mさんは篠井さんに私を紹介した。「ご専門は歴史学でいらっしゃいます」なんとMさんは、私の専門分野まで紹介したのだ。
「まあ、そうですか。先生ですか」と篠井さんは私の方を見て言った。そのお話ぶりは、テレビで見るのと、まったく同じ印象である。そしてビックリするほどオーラが出ている。
「さ、さきほど、講師控室でお見かけしたもので、ぜひサインをいただこうと、お、思いまして…」私は、こう言うのが精一杯である。
「ファンだそうですよ」Mさんが篠井さんに言う。
「まあ、ありがとうございます。歴史学がご専門ですか。わたくしもぜひご講義を聴きたかったです」
お世辞だとわかっていても、うれしい言葉である。
Mさんは、緊張している私を見かねたのか、私のフルネームを書いて、篠井さんに渡した。
篠井さんはそれを見て、大学ノートに「三上喜孝先生へ 篠井英介」とサインを書いた。
「ありがとうございます」と私。
「ご縁がありましたら、またお会いしましょう」篠井さんはそう言って、私と握手した。
めちゃめちゃいい人だ!これからも、篠井さんを応援しつづけるぞ!と誓った。
興奮状態のまま、講師控室に戻る。
「先生、今日はよかったですね。私もなぜかうれしくなりました」とMさん。たぶん、こんなミーハーな講師は、長年のMさんの経験からみても、めずらしかったのだろう。

「ご縁がありましたら、またお会いしましょう」は、それ以来、私の口癖になっている。そのときのサインは、いまでも研究室に貼ってある。

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