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お疲れさま、と声をかけたかった

2024年7月7日(日)は、七夕であると同時に、東京都知事選挙の投票日だった。
前日の7月6日(土)の夜、出張から帰ってきて地元の最寄りの駅の改札を出て駅ビルを抜けると、ひとりの若い女性がプラカードを持って立っていた。
「ひとり街宣」という言葉を最初に聞いたのは、杉並区長の岸本聡子さんがひとりで街頭に立ち、都知事選挙の投票に行くことへの呼びかけをしていた姿を何かの映像で見た時だったと思う。以前に見たドキュメンタリー映画「○月○日、区長になる女」の主人公で、わずかな票差で現職の区長を破り新しく区長になった人だった。
それから投票を呼びかける「ひとり街宣」をする人が次々とあらわれたことも、SNSの写真や動画などで知った。私の記憶の限り、大規模な選挙において市民が自らの意志で「ひとり街宣」をして投票を呼びかけたという前例を知らない。何でもかんでもSNSで情報や主張を拡散させてしまう今の時代に、デモによる市民運動がなかなか根付かないこの国で、あえて非効率な方法であることを承知で、ひとりで街頭に立ち、道行く人に声を発するというのは、かなりの勇気をともなう行為であることは間違いのないことである。
まさか自分がふだん利用している駅で、「ひとり街宣」に遭遇するとは思わなかった。妙な言い方になってしまうが、「ひとり街宣」は実在したのだということをこのとき初めて実感したのだった。
その若い女性は、おそらくふだんはあまり大きな声を出したりする機会がないのかも知れない。たぶん初めての体験なのだろうと思う。慣れない大きな声を出して、道行く人に自分の意見をはっきりと主張していた。「投票に行きましょう」と。これはかなり勇気がいることだ。
私はちょっと感動してしまい、その勇気をたたえる言葉をかけたいと思ったのだが、自分の意見を伝えているタイミングでこちらから声をかけてよいものだろうか、そもそもなんと声をかけたらよいものかと一瞬逡巡してしまい、そのまま通り過ぎてしまった。
一夜明けて投票日。私は投票所に行って投票をした。昨晩の「ひとり街宣」のことを思い出しながら。
そして投票結果は、「ひとり街宣」をしたあの女性が望んでいた結果にはならなかった。その結果を知った瞬間、彼女は何を思っただろうか。
あのとき、「お疲れさま」の一言でも声をかければよかった、と後悔した。どんな結果になろうとも、勇気をたたえる言葉をかけるべきだった。勇気がなかったのは私の方だ。

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