妄想1(前編)・堀口大学『月下の一群』(新潮文庫、初版1954年)

堀口大學という名前を聞いたのは、小学校6年生の時である。
そのときの担任のN先生は、芸術家肌の先生で、小学生だった私たちに、容赦なく芸術や文学の話をしてくれた。
私はその先生の言葉を、必死に書きとめた記憶がある。
堀口大學の『月下の一群』の話も、おそらくどこかに書きとめたのだろう。N先生は、授業中にいくつかの詩を紹介されたが、私が記憶に残っているのは、ジャン・コクトーの、「耳」という詩である。
「わたしの耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」
この詩がいい、とN先生は言った。
フランスの原詩を、七五調に翻訳している。
つまり逐語訳ではなく、そこには堀口大學の苦心と工夫がみられる、というのである。しかもその言葉は、美しい。
いまわたしの手元に、新潮文庫版の古びた『月下の一群』がある。
奥付には、昭和55年1月30日発行の第23刷とあるから、おそらく小学校6年生の時に私が買った本であろう。
なぜかこの本は、実家に置いておく、といったことはせず、引っ越した先にも、ずっとくっついてきた。座右の本、というわけではなかったのだが。
時折、ぱらぱらとめくっては、詩を読む。
以前は何とも思わなかったのに、いま私が好きな詩は、フィリップ・ヴァンデルビルの「死人の彌撤」である。

「私は知ってゐる。やがて、冬のとある日の
五時頃のはや灰色の夕暮に、私は死んで行くのだと。
哀れな同僚たちの意地悪さにもあきはてて、
しかしまた、恨みもなく怖れもなく、あきらめて、安んじて。
私の側にはただ一人、妻だけがゐるだらう、
彼女は私に云ふだらう、私の最後の時はまだ遠いと。
彼女は和げてくれるだらう、私の断末魔の苦痛を。
彼女は私に接吻するだらう、すべてを赦した上で。
私は今、かうしたすべてを予感する。
私自身も気に入らぬ晦渋で気位だけ高い、多くの書物を私は残すだらう。
しかも私の唯一の言ひ癖は、それらの書物を、自分が生きてきたといふにあるが、
その日、この言ひ訳はもはや言ひ訳にならないだらう。
その時、私は六十近い年だらう。
わたしの友は皆、厳しい光栄の中に生きてゐるだらう。
さうして私が死んだことなぞは、あんまり気にもとめないだらう。
翌日、墓地へ、一人の老女が、百合を抱いて来るだらう。」

この詩を読んだ当時は大病を煩った後のことで、自分の死というものを強く意識していた時期だった。自分もまた、この詩の中の「私」のように死んでいくのだろうと、自分の人生と重ね合わせたのである。

もう35年以上もお会いしていなかったフランス在住の先輩と再会したのはちょうどその頃、2018年のことだった。
堀口大學のこの詩が好きですと言ったところ、その先輩も「いい詩だね」と言ってくれた。ところがその後、先輩がフランスに戻りこの翻訳詩の原詩(フランス語)を読みたいと思って調べてみたところ、原詩はおろか、フィリップ・ヴァンデルビルという詩人の存在すら、突きとめることができなかったというのである。つまりこの詩も詩人も、まったく無名の存在だったのである。
「『月下の一群』を訳した頃」という堀口大學のエッセイの中に次のようにある。

「『月下の一群』のあの詩人群の大方は、その頃まだ日本には名さえ知られていなかった。ぼくはその人たちの作品を、名もない詩誌のバックナンバーや、市販には見出せない少部数発行の詩集やを探し集めては、読み耽り、気に入った翻訳可能の一篇でもみつかるとこおどりして、これに立ち向かった。ヴァレリーもコクトーもぼくは自分で見つけた。アポリネールだけは、彼と暫く婚約の間がらだった画家マリー・ローランサンがその存在を教えてくれた。」

おそらくフィリップ・ヴァンデルビルという無名の詩人の無名の詩を、堀口大學先生がたまたまどこかで見つけて、それを翻訳したということなのだろう。

しかし本当にそうなのだろうか。私の中に一つの妄想が生まれてきたのである。(つづく)

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