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オトジェニック・村下孝蔵「踊り子」(1983年)

小椋桂さんのことを書いていたら、村下孝蔵さんのことを思い出した。背広を着てギターを奏でながら歌う姿がよく似ていた。村下孝蔵さんも、サラリーマンをしながらシンガーソングライターをしていたんじゃなかったかな。
村下孝蔵さんといえば「初恋」が有名で、私が思春期のど真ん中のときの代表曲である。しかし私は「初恋」よりも「踊り子」という歌が好きだった。
村下孝蔵さんの歌は情感のこもった内容が多いのだが、曲調はポップ調でテンポも速い。そこがいいのだ。ああいう情感のこもった歌は、ともすればスローになったり、ためて歌ったりする傾向になりがちなのだけれど、とくに「踊り子」は、アップテンポを維持し続けているのがよい。
年齢を重ねると、情感を込めすぎてスローテンポになったりすることがあって、私はそれがちょっと苦手である。情感のこもった歌ほど、テンポが速いほうがよい、というのが僕の持論。
「踊り子」の歌詞の美しさはいうまでもないが、あの速いテンポだからこそ、(とくにライブで)「狭い舞台の上で」の「上で」や「駆け引きだけの愛は」の「愛は」のところで、半拍伸ばして歌うところに、万感の想いが込められるのである。たった半拍の余韻なのに、これだけ胸に迫る歌い方ができる歌手は、ほかにはいない。
ジャン・コクトーに「踊り子」という詩があって、堀口大學先生が『月下の一群』の中で訳している。

「爪先で歩みながら蟹が這ひ出る
両腕を花籠のやうに捧げて
耳元まで微笑する。
オペラの踊り子も
蟹に似て
きらびやかな楽屋廊下へ
腕を輪にして出てまゐる。」

この詩を読んだとき、
(ひょっとして、村下孝蔵さんはこの詩の影響を受けて「踊り子」を作詞したんじゃないだろうか)
とくに、
「爪先で歩みながら蟹が這ひ出る」(ジャン・コクトー「踊り子」)
から、
「爪先で立ったまま君を愛してきた」(村下孝蔵「踊り子」)
という歌詞を発想したのではないか、と思ったのだが、よく考えてみると、「爪先で」しか合っていなくて、思い過ごしに過ぎない。
小椋佳さんが、北原白秋の詩の影響を受けて「シクラメンのかほり」を作詞するほどには、影響関係は認められないのだが、私の中では、村下孝蔵さんの「踊り子」を思い出すとき、同時にジャン・コクトーの「踊り子」も思い出すのである。

1999年、46歳の若さで亡くなったことがじつに残念である。


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