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読書メモ・小林聡美『わたしの、本のある日々』(毎日文庫、2024年、初出2021年)

最近、「連想読書」と勝手に名づけた本の読み方を提唱して、我ながら気に入っている。「連想読書」とは、ある1冊の本に対して、一見して全然関係のない本をもってくる。その2冊が関係ないように見えて、実は深いところでつながっているのだと意識しながら読むと、これはまた格別の味わいを生み出すのではないだろうか」という仮説をもとにはじめた読み方である。

小林聡美さんの『わたしの、本のある日々』(毎日文庫、2024年)が文庫化されているのを書店で見つけて、小林聡美さんファンの私は迷わず買った。2021年に単行本として刊行されたときには気づいていなかった。この本はもともと、「二〇一六年から『サンデー毎日』に月に一度連載してきたもの」で、「毎月二冊本を選んで、それについて何かしら書く」(「まえがき」)という、いわば本についてのエッセイである。つまり1回の連載ごとに2冊の本を紹介する、短いエッセイを集めたものである。
この本を読んで、私はとても驚いた。
私が「連想読書」とかなんとかいって、得意げに書いていた本の読み方が、この本の中ですでに実践されていたからである。しかも連載をした6年間の最初から最後まで、そのエッセイのスタンスが一貫している。

たとえば「奇跡の生きもの」(124頁)と題するエッセイでは、

「強面の男性や近寄りがたい雰囲気の人が、実は猫好きだったりすると、それだけで「おっ」となる。この「おっ」は、親近感がアップした心の声だ。外見のイメージとはまた違ったその人の意外な一面を想像して、勝手に親しみがフツフツとわいてくる」

という書き出しではじまり、思想家・吉本隆明さんの『フランシス子へ』(講談社文庫)と、ミュージシャン・大貫妙子さんの『私の暮らし方』(新潮文庫)の2冊をとりあげている。
ふつう、「戦後思想界の巨人」の吉本隆明の本と、つねに最高の音楽を届けようと丁寧な音楽作りを怠らない大貫妙子さんの本は、まったく接点がないと思うのだが、小林さんの思考過程をエッセイを通じて丁寧にたどっていくと、なるほど、この2冊は紛れもなく1つの点を結ぶ。
 吉本隆明さんを「巨人」と称し、大貫妙子さんを「鉄人」と称する小林さんのエッセイは、次のように結ばれている。

「『巨人』や『鉄人』たちを柔らかな気持ちにしてくれる猫の存在。なんという奇跡の生きもの。わが家の奇跡の生きものは、毎朝四時半に私を起こす。『めしー』。目覚ましもないのにきっかり四時半。まさに奇跡!」

 猫が「奇跡の生きもの」であることを、まったく異なる2冊の本から連想する。これを「連想読書」といわずして、何と言おう。

 もうひとつ驚いたことは、小林さんが毎月2冊、6年間にわたって紹介した数々の本を、私は1冊も読んだことはない、ということである。つまり私のまったく知らない本ばかりが、この中で紹介されている。このエッセイでは、ベストセラーとか、有名な本とか、そういう類いの本はほとんど登場しない。私が書店を徘徊しても、つい見逃してしまうような本ばかりが紹介されている。しかし、小林さんの暮らしを豊かにするための読書はそういう中にこそ存在するということを、この本は教えてくれる。
ではここで紹介されている本を、読んでみたいと思うかといえば、そこはちょっと微妙である。この本は書評本ではなく、エッセイである。小林さんの思考過程をたどることができれば、そこに紹介されている本を読まずとも、私としては満足してしまうのかもしれない。
「まえがき」には、

「正直、私は読書家ではないのだ」
「約六年にわたる連載をこうして並べてみると、本のことを一生懸命書こうとしていたにもかかわらず、自分の暮らしについても結構述べている。当時の価値観と変わってきている部分もあって、自分は昔と全然変わらないと思っていたけれど、変わっていく部分もあるのだな、という発見もあった。変わらないのは、相変わらず呑気に暮らしているここと、読書家ではないというところか。
読書家でなくても、本は読む。本は好きだ。」

と、くり返し自分は読書家ではないと書いている。自分の暮らしを豊かにするための行為のひとつとして読書があるにすぎない。それは私にとっても理想の読書である。

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