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読書メモ・福永武彦「廃市」

福永武彦の中編小説「廃市」を、昔から耽読していた。
もし、大学で文学を学び直すことが許されるのだとしたら、福永武彦をテーマに卒業論文を書くかも知れない。

さて「廃市」は、その卒業論文を書くために、福岡県柳川の旧家・貝原家で一夏を過ごした「僕」が、貝原家で体験したことを綴った物語である。物語は、「僕」の視点で進んでいく。
この小説が好きな理由は、この小説が、「人間関係をめぐるミステリー」に満ちているからである。
主な登場人物は、次の5人である。

貝原郁代…貝原家の長女。
貝原安子…貝原家の次女。
貝原直之…長女・郁代の婿となった、貝原家の跡取り。
ひで…直之の情婦。
「僕」…卒業論文を書くために貝原家を訪れた大学生。

貝原家を訪れた「僕」は、貝原家に次女の安子しかいないことを、不審に思う。跡取りの姉夫婦がいるはずなのに、二人の姿が見えないのである。
やがて「僕」は、直之が情婦「ひで」のもとで暮らしていることを知り、郁代が寺に引き籠もっていることを知る。
では、直之は郁代のことがイヤになって、あるいは「ひで」のことが好きで、「ひで」のもとへ行ってしまったのか?
実はそうではなかった。
安子が「僕」に語ったところによれば、直之は郁代を愛していたが、あるとき郁代は、直之と安子が二人で食事に出かけ、ふざけ合いながら歩いているところを見てしまって、「直之が好きなのは、私ではなく安子なのではないか」と思い込み、郁代は自分から身をひいて、お寺に籠もってしまった、というのである。
実際、直之と安子は、はた目から見ても、とても仲がよかったのだ。
郁代のそうした「面倒な性格」をよく知っている直之は、誤解を解くことが面倒くさくなり、心の落ち着き場所として情婦「ひで」のもとで暮らすようになり、最後には、ひでと心中してしまうのである。
直之が本当に愛していたのは、郁代だったのか?安子だったのか?
郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込む。
夏が終わり、柳川の町に別れを告げた「僕」は、帰りの列車の中で、「直之さんが愛していたのは、やはり安子さんだったのではないだろうか」と述懐する。さらに「僕」もまた、安子を愛していたことに気づくのである。

はたして、「僕」が結論づけたように、直之が本当に愛していたのは、安子だったのか?これもまた、安子を愛していた「僕」の思い込みだろうと思う。
「あれほど郁代さんが確信を持って信じたのには、やはり十分な理由があるのだ」と「僕」は推測しているが、はたしてそうだろうか。郁代の性格から考えて、十分な理由がなくとも、2人の関係を確信するなど、容易なことである。
おそらく「僕」は、安子を愛していたがゆえに、必要以上に安子のことを意識して、直之に嫉妬していたのかも知れない。やはり、直之は郁代を愛していたのではないだろうか。

直之を愛していた郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、
直之を愛していた安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込み、
安子を愛していた「僕」は、直之が安子を愛していたと思い込み、
郁代を愛していた直之は、郁代や安子に誤解されて、「ひで」のもとに駆け込む。
直之と心中した「ひで」は、直之に愛されていなかった。

誰もが、思い込みと誤解をしている。
本当のところは、誰にもわからない。
これは、「人びとの思いのすれ違い」の物語なのである。

この小説が、私にとって何度も飽きずに読めるのは、それぞれの視点に立って、噛みしめるように読むことができるからである。
若いころはもっぱら、「僕」の視点で読むことが多かったが、今は「僕」以外の視点で読んでみることもまた、小説を読む楽しみである。

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