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読書メモ・福永武彦『随筆集 秋風日記』(新潮社、1978年)

亡き人を悼むって、どういうことだろう。

まことに残念なことだが、このところ、有名人の突然の逝去のニュースをよく目にする。
私がなんとなく違和感を抱くのは、「今ごろは天国で、大好きな○○さんと、酒を酌み交わしているのだろうな」とか、「天国にいる○○さんが、さびしくて××さんを呼んだのかもしれないね」みたいなコメントである。ちょっと無責任すぎるコメントだなあと感じるのは、私だけだろうか。
「なんで私のような人間が生きながらえて、あの人が天に召されてしまうのか」というコメントも、そういうこと、言わない方がいいのに、と思ってしまうのは、私だけだろうか。
コメントを求められると、言葉にならず、やはりそういったテンプレート的な表現を使わざるを得ないのだろうか。
死を悼む文章で、最近心に残ったのは、小説家の福永武彦が、中島敦について書いた文章である。

「若く死んだ小説家は誰しも、彼らが果すことの出来なかった未来を思ふことで哀惜きはまりないが、中島敦の場合は特にその感が深い。彼は大学を出て女学校の教師となり、教師をやめて南洋のパラオへ行き、帰国して文によって立つ決意をしたところで、忽ち死んだ。しかしその作品は、自我に憑かれ物に憑かれた思想的な小説から、世界の悪意を物語の框のなかに捉へた客観的な小説まで、完結した作品はその完成度によって、未完の作品は内部に含まれた可能性の量によって、すべて今書かれたやうに新鮮で、しかも既に古典と呼ぶにふさはしい。その醒めた眼は、現代の文学的混沌の夜空に輝く、一つのしるべの星である(昭和五十年十二月)」(『秋風日記』新潮社、1978年)

もちろんこれが書かれたのは、中島敦が亡くなって大分経ってからのことなので、親しい者が突然去った直後の気持ちとは異なる。しかし、この短い文章の中に、夭折した中島敦への哀惜と、その作品の永遠性が凝縮されていて、間然するところがない。してみると、亡き人への哀惜を直後に語るのは無理というもので、時間が経ち、気持ちが整理されてからこそ語ることができるのかもしれない。

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