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あとで読む・第46回・木寺一孝『正義の行方』(講談社、2024年)

折にふれてよく見ている「ヒルカラナンデス」というYouTube番組で、『正義の行方』(木寺一孝監督、2024年公開)というドキュメンタリー映画を強く奨めていたので、これは観に行かなければいけないと、時間を見つけて観に行くことにした。いまのところ東京では渋谷のユーロスペースでしか上映されておらず、しかたなく苦手な渋谷を歩いていると、周囲にはライブスポットが多いらしく、「推し」目当ての若者がたむろしていた。その中にあって、『正義の行方』の客層は僕くらいの世代か僕より上の世代が多く、そこだけ異空間のようでなんとも面白かった。

『正義の行方』は、1992年に福岡県飯塚市で起きた、2人の女児殺害事件(「飯塚事件」)をめぐるドキュメンタリー映画である。わずかな状況証拠で久間三千年(くまみちとし)という人物が犯人とされ、2006年に死刑が確定し、2008年に死刑が執行された。しかしこの事件の捜査には、多くの点で不審がある。つまり冤罪事件の可能性があるのだ。弁護団は警察や検察の捜査に不審を抱き、死刑執行後、異例の再審請求をするが、最高裁はこれを棄却する。しかし弁護団は諦めない。第二次再審請求を提起し、今に至るまでその結論は出ていない。

上映時間は158分。ドキュメンタリー映画としては異例の長さだが、長いとは感じなかった。上映時間のほとんどは、当時事件にかかわった当事者たちへのインタビューに費やされる。捜査に当たった福岡県警の捜査チームの面々、当初から警察の情報をいち早くとらえて捜査の進展を逐一伝えた西日本新聞の記者たち、死刑執行後の再審請求という前代未聞の挑戦に正面から取り組む弁護団たち、そして久間元死刑囚の妻。事件から30年ほど経った現在に語られるそれぞれの真実は、まるで違う世界線を形成している。この映画のキャッチコピーに「これは私たちの『羅生門』」とあるように、まさしく黒澤明監督の映画『羅生門』の世界を彷彿とさせる。これはリアル『羅生門』であり、リアル『藪の中』なのだ。

いまの視点で冷静に見れば、あまりにも証拠が少なく、動機も明らかでなく、本人の自白もとれず、しかも証拠の「捏造」を疑わせるような事実も次々と現れている中にあって、捜査を担当した当時の福岡県警の捜査チームの面々は、それでも久間氏を真犯人とすることにいささかの躊躇もない。それは保身のためというよりも、純粋にそのことを信じてやまないとする態度である。そしてそこに検察や裁判所が結託して真相をますます「藪の中」に追い込んでいく。
福岡県警の元捜査チームの面々による発言に対して感じたのと同じ薄気味の悪さを、以前観た映画でも感じたなあと思って思い出したのが、ドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督、2019年公開)における、ある種の人々へのインタビューである。異なる世界線を生きている人としか思えない薄気味の悪さを感じたものである。異なる世界線を生きている人には、かくも言葉が響かないものかと、唖然とする。
映画『正義の行方』は同名で書籍化もされており、このあとその本を読んで復習したい。

この映画を観てもう一つ思い出したのが、韓国の巨匠ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』(2003年)である。1980年代に起こった連続殺人事件を題材にした映画だが、当時横行していた警察による自白の強要や証拠の捏造と、それに抗おうとする刑事の葛藤を描いた傑作である。ちなみに私の印象では、韓国映画には実際の未解決事件を取りあげたものがよくあり、『殺人の追憶』のほかにも、『あいつの声』(2007年)、『イテウォン殺人事件』(2009年)などがある。映画の力で事件の解決を望む点では、『正義の行方』もまた同じなのかもしれない。

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