あとで読んだ・第40回(後編)・酒井順子『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川文庫、2023年、初出2021年)

小学校6年生のとき、NHKの夜のラジオ番組で、生まれて初めて自分の書いたはがきが読まれた。
その番組は、ふだんは、パーソナリティーの近石真介さんと平野文さんがトークをしながら歌謡曲のリクエスト曲をかける、という構成なのだが、ごくまれに、ゲストを呼んで話を聞く、という週があった。私のはがきが読まれたときは、まさにゲストを呼んで話を聞く週で、そのときのゲストが、宮脇俊三さんだった。その頃、『時刻表2万キロ』が大ベストセラーだった。
ふつうだと、ゲストのコーナーが終わると、ゲストは帰って、そのあとにリスナーからのおたより紹介、という流れになるのだが、この番組ではなぜか、ゲストコーナーが終わっても、ゲストがそのまま居残って、近石真介さんの読むはがきに一緒になってコメントをしていた。
近石さんが僕のはがきを読み終えたあと、「こういうこと、わかるなぁ」と、いつもながらリスナーに寄り添うコメントをしたあと、
「宮脇さんは、どうですか?」
と、近石さんが宮脇さんに話を振って、僕の他愛もない内容のはがきに対して、宮脇さんがコメントを言ってくれたのである。じつに朴訥とした語り口だったことは、いまでも忘れない。
それがきっかけになり、『時刻表2万キロ』を読んだ私だったが、鉄道ファンにはならず、それを語る宮脇さんのファンになったというのが、いかにも私らしい。

そんな思い出があったから、韓国に飛び立つ直前に、標記の本を成田空港の本屋さんで見つけたとき、荷物が少し重くなるのを覚悟でつい買ってしまったのである。
韓国出張では桐野夏生さんの『日没』を早々と読み終わってしまったため、出張の後半は標記の本を読み始めた。
酒井順子さんのエッセイをこれまで何冊か読んできたが、軽妙な文体と辛辣な視点が持ち味である。ところがこの本は、まじめな評伝であることにまず驚いた。しかも鉄道旅を愛する内田百閒と宮脇俊三さんに対する敬意に溢れている。それならばと、こっちも印象深い箇所に付箋をつけながら丁寧に読んだ。
内田百閒と宮脇俊三少年が迎えた「敗戦の日」についての章がとりわけ興味深い。1945年8月15日の正午に宮脇少年は米坂線の今泉駅にいた。その行程を酒井さんも追体験する。やはり鉄道旅に対する敬意に溢れている。
その一方で、内田百閒についてのつぎの描写は、酒井さんらしい表現で、思わず笑ってしまった。

「…東海道本線で国府津に着き、御殿場線へ乗り換えるときは、走れば間に合うところを走らずに乗り遅れ、駅のベンチでひたすら二時間、つぎの列車を待っている。『時間ができたからその辺を見てこよう』という感覚は、全くない。ヒマラヤ山系(注:平山三郎のあだ名)とろくに話もせず、ただ座っているだけなのだ。
『する事がないから、ぼんやりしている迄の事で、こちらは別に変わった事もないが、大体人が見たら、気違いが養生をしていると思うだろう』
との部分は、『今日の観点からみると差別的表現と取られかねない箇所』に他ならない。百閒は誰かと横並びに座っている状況を書く度に同じ表現を使用するのだが、足許を雨だれが濡らす状況で二時間、黙って座り続けるのは、確かに正気の沙汰には見えなかっただろう」

このあたりのまなざしは、いかにも酒井順子さんらしくて、そこはかとなく可笑しい。
さて、宮脇さんは出版社を辞めてから、紀行作家で身を立てていく事を決意するのだが、これがなかなか苦労したという。そのあたりを、酒井さんはこう表現する。

「作家となった当初、『書くために旅行する』ことを重く捉えた宮脇は、旅の間に詳細なメモをとっていた。すると旅の楽しさが失われ、
『旅日記を書かねばならぬという意識が重く澱んでいた。私にとって唯一の憩いの場、聖域が侵されてしまったのである』(『駅は見ている』)
という状態になる」

「書くために旅行する」を「書くために読書をする」に置き換えると、これはいまの私の気持ちそのもので、思わずドキリとする。そういえば映画監督の塚本晋也さんが、あるラジオ番組で「感想を言うために映画を観ることほどつまらないことはない」という意味のことを言っていたのを思い出す。自分は書くために読書をしていないだろうか?と、こうした文章を書くことそのものへの疑問が、頭をもたげてくる。
はたしてこのままこんなふうに書き続けてよいのだろうか?



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