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回想9・くまざわ書店の憂鬱

ある書店で、深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』という本を探していたときのことである。私はめったに店員に本の所在などを聞くことはないのだが、その時はたまたま聞く羽目になった。カウンターに行くと、パソコンで検索してくれるとのことだった。
「少々お待ち下さい」
アルバイトの若い女子店員は、「フカザワシチロウ」の名をパソコンに打ち込み始めた。ところが検索結果は0件であった。
「ありませんねえ」店員が言った。「フカザワシチロウという著者の本じたいがありません」
そんなはずはない。深沢七郎といえば、『楢山節考』などを書いたかなり有名な作家である。文庫本も山ほど出ている。ないはずはない。
「そんなはずはないと思うんですけど」もう一度検索してもらう。
「やはりありませんねえ」
深沢七郎の本がないはずはない。不審に思ってパソコンの画面を覗くと、「フカザワシチロウ」の名を、「著者名」のところではなく「書名」のところで検索している。
「あの、書名のところで検索してますよ」
「あら、ごめんなさい」
今度はちゃんと「著者名」のところで検索してもらう。もう大丈夫だろうと思ったが、検索結果はまたも0件だった。
「やはりありませんねえ」
若い女子店員は困った顔をしている。私は別に意地悪をしているわけではないのに、何か非常に悪いことをしているように思えてきた。
そこへ別の若い女子店員が現れた。
「どうしたの?」
「深沢七郎という人の本を探しているんですけど、検索しても出てこないんです」彼女はすがるようにもう一人の店員に助けを求めている。
困ったわねえ、という顔をしてしばらくしてから、思いついたようにその店員が助け船を出した。
「ひょっとして、『シチロウ』ではなくて、『ヒチロウ』で登録されているんじゃないかしら。 『シ』と『ヒ』って、ほら、よく間違えやすいじゃない」
おいおい、江戸っ子じゃないんだから、データベースに「深沢ヒチロウ」と登録されているわけはねえだろ!私は心の中でツッコミを入れた。
「あ、そうそう、そうですねえ」
最初の店員も、妙に納得して「シチロウ」を「ヒチロウ」に直し始めた。「おまえもそこで納得するんじゃない!」と、再び心の中でツッコミを入れる。案の定、検索結果は0件であった。
「困りましたねえ」店員はいよいよ困り果ててしまったようだ。当たり前だろ!と心の中で思いつつ、再び画面を見ると、なんと「フカザワ」ではなく「フカガワ」となっている。

「フカガワ ヒチロウ」

何のこっちゃわからない。これではいくら頑張っても0件のはずである。
私は「もういいです。自分で探します」と言ってカウンターを後にした。
なお、この書店の名誉のために言っておくが、この後、自分で探していると、さっきの店員がわざわざ私のところに来て、「深沢七郎」を正確に検索しなおした際の結果を事細かに報告してくれた。結局、この書店には私が探している本の在庫がないことがわかったのである。

(『MANDARIN』1996年9月号。執筆当時27歳)

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