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ひだまりの唄 24

十月十日

 

それから暫く経って、秋の木枯しが靡く頃、俺は教室の窓を覗いて、静かにスマートフォンを取り出した。

まだ授業中。だが、先生にはバレていない。

そうっとイヤホンを取り出して、たまに聴いているラジオに耳を傾けた。

『どうも皆さんこんばんは!日野まりでございますぅ~。一週間のご無沙汰、如何お過ごしでございましたでしょうかぁ!…と、言うことでですねぇ、早速早速!お便りを紹介したいと思いますよ!えーと…此方はですねぇ、ラジオネーム、『マリー』さんから頂きましたね!ありがとうございます!あ、私と似たラジオネームだ。親近感が沸きますね!ありがとうございます』

『ん?!俺?!』

俺は唐突にもその名前が耳に入ってきて、思わず立ち上がってしまった。

『ちょっと日野くん、何大声だしてるの?!座りなさい!』

先生の怒号がイヤホンをしている俺にも届いて、思わず座り込んだ。

『あ、すいません…!』

その時、ベルが鳴った。

『あーん。もう…。仕様がない、今日はここまでにします。皆さん、続きは予習しておくように!期末テスト、近いんですからね!』

そう言った先生に、『ハァーイ…』と、倦怠とした声が包まれてる教室の一角で、俺はそのラジオネームの『マリー』とか言う奴の手紙を興味津々と耳を傾ける。

『『こんにちは、マリーです。初投稿させて頂きます』

あ!ありがとうございます!

『今年も十月に差し掛かりました、後、二ヶ月で一年が終わろうとしています。…ですが、私にはやり残した事がいくつもあります』

おや、何でしょうかね。

『その一つである、好きな人に告白をする事、です。

…いえ、していないのではありません。出来ないのです。

その人には恐らく好きな人がいるのでしょう。

なので、私はその人から一線置くことを試みました。

ですが、ふと思い出してしまい、勉強に手を付ける事を忘れる私がいるのです。

どうすればいいのかなんて、頭では分かっているつもりなのですが、中々行動に移す事が出来ないのです。

しかし、このお便りを認めていたら、なんだかスッキリとしました。ありがとうございます』

…と来てましたね』

ん?俺と同じラジオネームのこの人、なんだか心境が俺と似ている。ねむちゃんとYの事を連想してしまう。

いや、違う。俺は気になっている人が絞れなくてそうなっている事など、百も承知。俺は自業自得だ。

だが、この『マリー』は違う気がする。しかも自分の事を『私』と言っている。なんだ?これは。

『そうですか…。それは気にかかってしまい、さぞ落ち着かない事でしょうね。…しかも、自分では分かっている。でも、行動に移せない。それじゃあさ!受験に勝ってから告白をしてみるのはどうでしょうかね?他の誰にも負けない自信がついて、もしかしたら、上手くいくかもしれませんよ?…あれ?案外良い案出したんじゃない?私…。『マリー』さん、頑張って下さいね!応援してますよ!』

まるで俺に言われているみたいだが、ならば、俺はどうすればいいのだろうか。

そんな悶々とした悩みを胸に秘めていると、イヤホンを取り上げられてしまった。

『おい、昼休み』

Yが唐突にもそう声をかけて、俺は慌ててスマートフォンを閉まった。

『…わぁ!…なんだよ…Yか』

『なんだよって事は無いだろ?ほら、購買行こうぜ?』

『分かったよ』

俺とYは肩を並べて、購買へと足を向けた。

『なぁ。変な事、聞いていい?』

『え?なんだよ。変な事って』

『自分と同じ名前の人が、自分と同じ悩みを持ってたら、どうする?』

Yはポカリと口を開けた。

『…へ?なんだよ。本当に変だな。んー…。例えば?』

『例えば、その人が初めてあった人で、名前を聞いたら自分と同じで、それとなく悩みを聞いたら、それも自分と全く同じというか…。似た悩みを持ってるんだよ』

『…うーん…』

Yは頭を張り巡らせているのか、顎に手を置いて話始めた。

『そんな境遇に合ったことが無いから分からないけど…。多分、俺は体験談で話すかなぁ。同じ悩みを持ってるなら、そっちの方がいいだろ?』

成る程、と思いつつも、そうではないような、そんな気がする。

俺は先のラジオネーム、『マリー』がどうも気にかかっている。

顔も知らぬ存在を気にかけてしまう事なんて、俺は全くしないのに、何故か今でもその『マリー』の名前が脳裏を巡っている。

すると、不意にもYが訊いた。

『でも、なんでだよ?』

『え?何が?』

『いや、そう思ったって事は、なんかそう言う事あったのかなぁ…ってさ』

俺はしらを切る様に首を振ると、Yは一つ笑みを浮かべて話した。

『…マリーってさ、唐突にも不思議な事言い出すから、ビックリするよな』

購買のパンを買い求める列に順じて、俺とYは話続けた。

『…最近、葵ちゃんとか歩弓ちゃんと遊んだりしてるの?』

『んー…。最近はめっきりだなぁ』

『そりゃそっか。ウタナのじいさん、入院してるもんなぁ。葵ちゃんも大変だよ』

Yはちょっぴり寂しそうに瞳を潤せた。

しかし、その途端だった。

『ん?焼そばパン?もう無いよ。残念だったね』

購買のおばちゃんの、容赦ないその言葉に、俺とYは同時におばちゃんを見た。

人気のあるあの焼そばパンが、目の前の人で、なんと、売り切れてしまったのだ。

冗談だと、そう思った矢先、Yは身を乗り出しながら言った。

『ちょ…!おばちゃん…!そりゃ無いよ~…!焼そばパンが無かったら俺、この先の授業なんて頑張れないって…!この購買の焼そばパンが大好きなのにぃ~!』

『あん?もうね。仕入れの数も決まっちまってるんだよ。そう言われても無いもんは無いんだから、諦めな』

『そんなぁ~…!』

購買の小窓にしつこいほどに粘りついて、顔を押し付けながらも、実際の状況は押出し負け。

焼そばパンは残っていなかった。

俺はYの肩に手を置いて、『仕方ない。戻ろう』と首根っこを掴んだ。

すると、Yは地団駄を踏み荒らしながら、『え、マリー…!やだ…!焼そばパン、食べたい…!やだー!』と諦めが悪い。

本当に仕様がない奴だ。と、踏ん切りがついていないYに、幸運が舞い降りた。

『あ…。二人とも、丁度良かった』

そんな俺達の目の前に立ったのは歩弓ちゃんだった。

『…あれ?歩弓ちゃん。どうしたの…?』

『実はね…。ジャジャーン』

そう言って出したのは、焼そばパンが三つ。

『…私が作ったんだ。一緒に、食べよ?』

Yが涙を流しながら歩弓ちゃんの持っている焼そばパンに飛び付いた。

『うわー!マジ女神…!ありがとう!早速食べたい!今すぐ食べたい…!涎が抑えられない程食べたい~!』

『…麻利央くんも食べよ?』

俺は一度、黙って頷いた。

俺と歩弓ちゃんとY、しかも、Yなんか急ぎ足で屋上までかけ上る。

屋上で昼飯を食う人なんざ、こんな寒い時期には一人もいないのだが、歩弓ちゃんの希望が合間って、屋上で食べる事にした。

綺麗にファイバー紙で包まれているせいか、凄く上品に見えて、逆に食べづらい。

だが、Yはそんは事もお構いなしにガサゴソと乱雑に破って、焼そばパンを取り出した。

しかも、ただの焼そばパンではない。

シーフード風味の塩コショウで味付けされてる、白い焼そばパンだった。

一言で言えば、お洒落だ。

『ウッワーーー…!!うまソー!イッタダッキマース!』

一口、はむりと食べたYは大きく頬を突きださせて、モキュモキュと音を立てて食べだした。

『おいしい?』と歩弓ちゃんがYに訊くと、Yは目尻をグンと下げながら頬を赤く染め、『ほいひ~…』と、言った。

Yの頭の上にはラッパを吹いている妖精が、何人も見えるが、それを放っておいて、俺も、ひと口はむりと噛み締めた。

正直、焼そばは一般的なソースに青海苔がかかったスタンダードな焼そばが大好物なのだが、それは敢えて口に出す前に、そのシーフード焼そばパンで溢れそうな俺の言葉を押し込んだ。

大きく噛み締めたそのシーフード焼そばパンは、塩と潮が折り重なって、風味が絶妙。凄く磯の香りも染み渡っていて、とても美味しかった。

『本物のシーフード…。いや、シーを感じるよ…。凄く、凄く美味しいね!』

『え?マリー、シーを感じるってなんだよ』

『フっ。海を感じるっていうんじゃない?普通。麻利央くんって本当におもしろいよね!』

そう言って歩弓ちゃんが笑っていると、俺もつられて笑った。

『いや、でもさ。マジで歩弓ちゃん、料理上達したよね。本当に上手いよ。こんな焼そばパン、食べたこと無かったもん』

『本当に…?照れるなぁ』

歩弓ちゃんは少し顔を俯かせて、笑った。

『あれ?でもさ。なんで三つ用意してたの?これって、本当に俺の為?』なんて、Yは飄々と歩弓ちゃんに訊いた。

『…いや、沢山作ってくれたんだよ…。ね、歩弓ちゃん』

俺がそう言って歩弓ちゃんの顔を覗く様に見ていると、歩弓ちゃんは、その俯きながらの笑顔が、ふと、消えた。

『…あれ?俺、変な事訊いちゃった…?』なんて、Yは頭を掻き出した。

すると、歩弓ちゃんの両方の瞳から、雫が次から次へと落ちていく。

『…あれ?!歩弓ちゃん…!』

『おい…!Y…!』

すると、Yは慌てた様に歩弓ちゃんの肩に手を置いてしゃがみながら歩弓ちゃんに視線を合わせようとするも、歩弓ちゃんは目も合わせられない程に、涙が、次から次へと滴りだす。

『ゴメン…!いや、傷ついた質問したなら謝るよ…!』

すると、歩弓ちゃんは静かに首を二度振り、ゆっくりと口を開いた。

『ううん…。ゴメンね…。実は…それ…サップの…』

『え?あ、そうなの?!ってか、食べちゃったよ…!』と、Yは慌てふためいていると、また歩弓ちゃんは、今度は一度、首を振った。

『いいの…!…上手く作れたから…サップの分もと思って、サップを家中探したんだけど…。サップ…。サップ…!』

すると、顔を両手で押さえつけながら、歩弓ちゃんは大きく泣き出した。

『サップが…!いなくなっちゃったの…!』

俺とYは、耳よりも、何故か、目を疑った。

『…え?サップって、あのサップ?』

Yは目を丸くて、歩弓ちゃんの隣にしゃがみこみながらそう言った。

歩弓ちゃんは顔を俯かせたまま、なきじゃくっている。

そんな歩弓ちゃんの隣に、俺もそっとしゃがみこんだ。

Yは困窮した顔を浮かばせて、俺を見た。

『でも、サップ、あんなに歩弓ちゃんに協力的だったのに、なんでまた急に…』

俺は首を傾げながらYに答えた。

『…でも、サップが急にいなくなる様な事、無いと思ってた…それも一言も無いままいなくなるなんて…。だってさ、歩弓ちゃんの身に寄り添うのがサップの仕事だろ…?』

『あ、そうだよ!それ、職場放棄じゃん…!』

Yは血相を変えて、親身になってそう言った。

『いつからいなくなったの…?』

俺がそう歩弓ちゃんに訊くと、歩弓ちゃんは顔を俯かせたまま、ゆっくりと話した。

『…サップがいなくなったのは…二、三日前…』

『え?じゃあ、やっぱり…突然いなくなったの?』

Yがそう訊くと、歩弓ちゃんは黙って頷いた。

『なんで突然…思い当たる節はある?』

朧気な顔を浮かべて歩弓ちゃんは首を振った。

容易には考えが浮かばないのだが、歩弓ちゃんとサップの信頼関係は計り知れない。

いや、歩弓ちゃんだけじゃない。歩弓ちゃんのお父さんだって、信頼は厚いに違いない。

だって、歩弓ちゃんが単独でこっちに引っ越す時に側近として仕わせたのが、サップだから。

その位、サップは歩弓ちゃんに熱誠していたのは手に取る様に分かる。

だが、そのサップが、いなくなった。

やはりどうにも信じ難い。

そう思って、俺は歩弓ちゃんに提案をした。

『…ねぇ、今日、歩弓ちゃんの家、行っていいかな』

歩弓ちゃんは不意にも俺を見た。

『だってさ、どう考えても信じ難いんだよ。何て言うか、ここまで手厚く歩弓ちゃんの側で頑張っていたサップが急にいなくなるなんて有り得ない』

それにはYも何度も頷いた。

『そうだよな。学園祭の時だって、歩弓ちゃんの友達だからって、態々俺達にまで協力してくれた。そんな事をしてくれるの、サップ以外、絶対見つからない。いや、見つけられないよ』

俺はYを見て、重く頷いた。

『だから、真意を探りたいんだ。サップの真意を。それには歩弓ちゃんの家に上がらないと何も始まらない。歩弓ちゃん、協力させてよ…!』

しかし、歩弓ちゃんの顔色は明るくはならない。

それに気がついて、俺は声を掛けた。

『…あ、やっぱり…迷惑…?』

歩弓ちゃんは首を小さく二度振って『ううん…。違うの…。家に行っても、分からないと思う…。だって、一番間近にいた私ですら分からなかったんだから…。そして、そんな痕跡すら残って無い…。だから…』と、俯き様話すと、Yは強くそれを跳ね返す様に言った。

『いや、分かないけどさ、サップにとって近くなく遠くなくの俺達が探せば何か分かる事もあるかも知れないじゃん。一番それに相応しいのは、マリーだし、マリーと協力すれば、何か分かるかも知れないじゃん。無理強いはしないけどさ。行かせて欲しい。頼むよ』

そのYの言葉に俺は強く同意して、『うん。頼むよ』と、歩弓ちゃんの目をじっと見た。

『…うん。分かった…』

渋々でも受諾してくれたその言葉に、俺達は同時に頷いた。

『…よしっ!決定だ!』

するとYは両手を握りしめながら身を屈めて、たぎる思いを言葉に込めて言った。

『うー…!なんだか、ワクワクしてきたぞ…!謎の解明!絶対暴いてやる!』なんて、探偵気取りも甚だしい。

『おい、Y、遊びじゃないんだそ』

『…分かってるよ。でもマリー、今回はお前がキーポイントだぞ?頼んだぞ探偵さん!』

『…は?!俺?!』

『ったりめーだろ?歩弓ちゃんの他に、サップの事をわかっているのは他でもないマリー。お前しか居ないんだから』

俺は、Yのお得意様である重大責務の橋渡しに言葉を詰まらせている内に、歩弓ちゃんは大きく喜んで『麻利央くん…!ありがとう!』と、両手を強く握りしめながら言った事に、俺は少し身を引きながら、『う…うん…!任せてよ…!ハハハ』なんて、なんとも頼りの無い返事をかますのが精一杯だった。

そんな虚勢を張った俺に、Yはニヤニヤと頷きながら、『さすが軽音楽部の部長だ…。祭りの時の恩を仇で返す訳にはいかないもんな』と、ウンウンと腕を組ながら頷いた。

俺はそんなYに怨念を込めて、視線を送った。

サップがいなくなってから、歩弓ちゃんはバスで通学をしている。

学校から国道に出る付近にバス停がある。

そこから納沙布岬行きのバスに乗り込む。

だが、本数が限られているせいか、時間は逃せられない。

慌ててそのバスに乗り込んで、俺達は歩弓ちゃんの家へと向かった。

歩弓ちゃんの気持ちとは相反して、窓から覗く海面が、きらびやかに光が放って気持ち良さそうだ。

俺が思わず窓を開けると、少し肌寒い潮風が、俺の髪を靡かせ心地がいい。

そんな俺の気持ちを遮る様に、Yが言った。

『寒みーよ。窓、閉めてくんね?』

俺はそれに言葉を呑んで、『…分かったよ』と窓を閉めた。

『…でもさ、喧嘩も何もしなかったの?』とYは歩弓ちゃんに訊いた。

『…うん』

『居なくなったのが二、三日前として、居ないと気がついたのは何時くらい?』

『本当、起きてすぐ』

『起きてすぐ…?』

俺とYは顔を見合わせた。

『それじゃあ、その前日の夜は普通に寝たんだね?』

『うん。いつも通り、おやすみなさいって、挨拶も交わしたもん』

俺とYは尚も悩まされた。

『いつも通りの日常…。でも、急に居なくなる…。それは正しく、誰かが歩弓ちゃんに黙って、サップに召集を掛けた裏組織があるとしたら…。それは…』

『…おい、Y。不安を煽るような事言うなって』

『…あ、ワリィ』

だが、そんなYの何気ない推理に、俺は思い当たる節が、もう一つ生れた。

『…あれ?そう言えばサップって、歩弓ちゃんのお父さんに雇われてるんだよね?』

『…うん』

『お父さんに電話は?もしかしたら、急ぎで呼ばれたのかも…!』

それに歩弓ちゃんは首を振った。

『それは無いよ…。それだったら、置き手紙の一つ位、サップはしてくれるもん』

『電話はしたの?』

『…出来ないよ。もしそれでお父さんの逆鱗に触れたら…サップは…』

『クビ…だな』

『サップが居なくなるなんて…私、やだ…』

それに俺もYも腕を組ながら、掛ける言葉を探ったが、何も出てこない。

そんな事を考えていたら、歩弓ちゃんの家から最寄りのバス停についた。

そこを降りて歩く事五分弱、歩弓ちゃんの家についた。

俺とYは異様にやる気が出ている。

なんといっても世話になった歩弓ちゃんの事だ。

俺は意を決して歩弓ちゃんの家の扉に手を掛けた。

『それじゃあ、お邪魔するよ』

Yも歩弓ちゃんも、深く、そして強く、頷いた。

俺は扉をゆっくりと開けた。

その扉は何処か重々しい。

まるで、事件現場に調査入りする刑事みたいな気分だ。

扉には鍵がかかっていない。

俺は歩弓ちゃんを見た。

歩弓ちゃんは首を傾げて俺を真っ直ぐに見た。

『鍵…掛けてた?』

歩弓ちゃんはゆっくりと頷いた。

『…うん。確かに鍵はしっかりと掛けたよ…?』

『おかしいな…』

『もう帰ってきてんじゃね?』

Yのすっとんきょうにも出たその言葉を鵜呑みにするように一度、三人で笑いあったが、同時に俺と歩弓ちゃんは首を振った。

『いや、それはないだろ』

『サップが帰ってきてたら、先に学校に迎えに来てくれてる筈…』

だが、Yは一度、首を傾げた。

『それじゃあ、なんで鍵が空いてるんだよ』

『それは…。これから入れば分かる事じゃないか…』

俺はまたも、ドアが開いた向う側を見た。

家の中は暮れていく日差しを浴びて輝かしくも、どこか鬱蒼とも手に取って分かるような、閑散とした空気を帯びていて、入ろうにも中々足が上がらない。

しかし、それに抗うように、徐ながら足を上げた。

床一杯に大理石が敷き詰められた玄関に、足を踏み入れてみる。

そして、靴を脱ぎ、足を置いた。

フローリングで滑らかな床は、まるで俺の足をリビングへと進ませているみたいだ。

滞ろうにもないその足運び、スルスルと誘われて、リビングへの扉を目前とした。

家の中は静まり返っている。やはり、誰も居ないのか。

俺は振り返ってYを見た。

『…なんだよ。いいから開けろって』

声を潜めながらYがそう言うと、俺は一度頷く他無かった。

リビングへと扉の取っ手に手を掛ける。

カチャリ…。と、物静かに開いた扉は、なんとも軽々しく、難なく開いた。

それが逆に恐ろしい。恐る恐るとリビングを覗き込む。

すると、人はおろか、虫の一匹もいる気配がしない。

それを確認して、リビングの扉を思いきり広げた。

『…誰もいないよ』

『あれー…。おかしいな…。なぁ、歩弓ちゃん、本当に行く前、鍵閉めたの?』

『鍵閉めたよ!間違いないもん』

そう言って、歩弓ちゃんは家の鍵を揺らしながら見せびらかした。

『え?それじゃあ、なんで鍵空いてたんだよ…。怖いじゃん』

『…だから、それが怖いんだよ…』と、歩弓ちゃんは肩をすくませた。

俺とYは、生唾をゴクリと鳴らせてリビングを見た。

日が差し込むその情景に、俺は溜め息を一つ吐いた。

不可解にも程があるそのリビングはいつもの様に埃が一つも無く、日の光がシャンデリアを乱反射させ、何一つ曇りも無い。

だからこそ、失踪の謎の雲行きを怪しくさせていた。

Yは『綺麗すぎだよ、この家。綺麗すぎて、何処を調べていいか迷っちゃうな…』と、頭を掻いた。

本当にその通りだと、頷かざるをえない状況で、俺はキッチンに目を配った。

キッチンの壁際には、エレベーターがついていた。

俺はそれに指を向けて、『あれ…?そう言えば、あのエレベーター、サップの部屋へと繋がってるって言ってたよね?』と、歩弓ちゃんを見た。

『うん。でも、サップの部屋にはしっかりと鍵が掛かってたよ…?』

『…行ってみよう』

エレベーター間近まで足を運んで、俺は昇降ボタンを押して、エレベーターが上がって来るのを待った。

『マリー、サップの部屋に行くのか?』

『うん。何かあるかもしれないから』

『それなら、俺達も行こう。三人で固まった方が今は安全だよ』

Yの言う通りだ。何者かがこの扉を開けてまだ中で身を潜めているとしたら、それはそれで大変だから。

俺はそのYの提案に、黙って頷いた。

エレベーターが二階へと着いて、扉が開いた。

俺もYも歩弓ちゃんも、それに急いで飛び乗って、下へと降りていく。

サップの部屋に入るのは始めてで、正直、何があるか、検討もついていない。

だからか尚更、緊張が高まった。

ウォンと扉が開いた。

そのエレベーターの扉の本当真ん前、またも真っ黒い扉が見えた。

その扉の丸い取っ手に手を掛ける。

しかし、ガチャガチャと回りはするものの、中々空かない。

『あれ…?おかしいな…。空かないよ…』

『…ね?』と、歩弓ちゃんは俺の顔を覗いた。

『ちょっと貸してみ…』と、Yは俺の身体を押し退けて、扉の取っ手に手を掛けた。

すると、Yはその扉を横にスライドさせると、不思議な事に扉が開いた。

『…Y、スゲーな』

『え…。私も分からなかった…』

すると、Yは得意気に鼻を擦りながら言った。

『へへん。でも、取っ手が丸いと引き扉だって錯覚するもんな。マリーがガチャガチャと暴れてる時に弱冠横にズレたのを見て、もしかして…って思ってさ。開いて良かったよ』

しかし、まだ前には扉がある。

それも取っ手が丸い、黒い扉があった。

『行ってみよう』と、Yはそれに近づく。

しかし、扉は不意にも徐に開きだした。

俺達は目を疑った。

キィー…と、音を立てて、ゆっくりと開いた扉の向う側、大きな男が一人、立っていた。

『う、うわーーーー!』

俺とYは突如として現れたその男に腰を抜かして、尻もちをついた。

しかし、その大きな男がのそのそと此方へと向かってくる。

俺とYは腰をつきながら、ずりずりと後ずさるも、その大男は此方へと近づいてくる。

『う…うわ!く…来るなぁ…!』

情けなくもそう大声を上げて、俺とYは抱き合った所に、その大男が口をゆっくりと開けて『…お久しぶりでございますね。歩弓様』

『…へ…?』と、頼りなくも出たその声と同時に、俺は歩弓ちゃんを見た。

『…あなた…なんで…ここに…』

歩弓ちゃんは目を大きく広げながら、その大男を見つめた。

『なんで…。そんな事、分かりきってるではありませんか』

大男は静かに扉を閉めて、続け様にこういった。

『歩弓様…。貴方のお迎えに上がらせていただきました』

そう言った男は筋肉質でスーツの上からでも分かる程の逞しい身体を、ズイッと前に押し寄せた。

決してか細くはないサップでさえも、その男から比べれば、華奢に見えてしまう程だ。

だがそんな大男に、Yは急に立ちはだかる様にスクッと身を持ち上げた。

『お…おい!お前…!名前も名乗らない癖に、何を偉そうに…!まず、名を名乗れ!』

震えながらも向けたその焦点も合わぬ人差指を、大男の眉間を目掛けける様に向けた。

『…これはこれは…。失礼致しました』

そう言ってサングラスを取り外すと、そのサングラスを胸ポケットへと忍ばせた。

『私、ラウスと申します。以後、お見知りおきを…』

『貴方がなんで…。ここまで…?』

歩弓ちゃんは疑心を抱きつつ、心許ないYの背中に身を潜めながら言った。

『私がここまで来る理由…ですか?そのような事、お話しするまでもありません』

ラウスは見下す様に鼻に掛けた笑いを一つ溢して、『歩弓様なら分かりきってるではありませんか。私がここにくると言うことはどういう事か…』と、俺達を嘲罵した。

『おとう…さん?』

そう歩弓ちゃんが言うと、そのラウスと言う男は、小さく頷いた。

『そうです。私は貴方のお父様からの命を預り、ここに参った次第でございます。…もう家出ゴッコはお仕舞いにさせて頂きますよ?お嬢様』

『家出…ゴッコ…?』

なんとなくだった。

俺はそのラウスの言葉が癇に触った。

今までそんな感情を剥き出しにした事は数える程しか無かっただろう。

腹の底から、恥ずかし気も忘れて、吠えた。

『冗談じゃない…!』

ラウスはゆっくりと首をぐるりと此方に回し、俺を見下す様にこちらを睨みつけていた。

『歩弓ちゃんがどれだけの思いでここまで来たか…!歩弓ちゃんは…歩弓ちゃんは…サップの力も、出きるだけ借りないように…!一人で立ち上がる様に…!バイトもしながら、料理も自分で作りながら、そして、自らの力で友達と支え合いながら、ここまで学校生活を送っていたんだ!その覚悟がどれだけの事か、お前に分かるのか!?』

Yも歩弓ちゃんも、唐突に声を荒げた俺を見た表情は、まるで驚きを隠せていない。

しかし、ラウスは、やはりそんな俺を見下して、一つ鼻で笑った。

『それが、青二才だと言うのですよ』

『なんだと…?!』

『一人でなんでもやる?一人で生活をして、一人で学校生活を送る?笑わせてくれますね。どんな戯れ言を申されても、それは所詮、サップがいたからなんですよ。一人で生活なんて、出来る訳はありません。サップに甘えていたからここまでこれたのですよ?お嬢様』

ラウスは眼孔をグッと拡げながら、今度は歩弓ちゃんを睨みつけて、続け様話した。

『だって、現にサップが居なくなってしまい、狼狽えていたのではないですか?だからお友達をお呼びして、この部屋まで来たのでしょう。サップの行方を探る為に…。違いますか?』

 歩弓ちゃんは音を上げる事が出来ないのか、そのまま口を紡がせた。

それを見て、俺は更に声を上げた。

『サップ…!サップは、何処にいるんだ…?!』

『サップには黙って貰うよう、一度帰って頂きました。歩弓様の成績が下がっている事を鑑みた会長であるお父様のご判断でございます故、致し方無いのです』

『…そ、そんな…』

歩弓ちゃんの成績が下がっている?初耳だ。

『サップ…。あの男は甘い。お嬢様が外で遊びに出られても何も言わずに送り出し、お嬢様のお友達の為にトラックをチャーターしたりと、学業が最優先と言うのを分かっていない。なので、これからは私がお嬢様のご面倒を見させて頂きます。しかし、私は会長の側近も務めております故に、やはりお嬢様にはお帰り頂きたく、お迎えに参ったのですよ。分かりましたか?』

『歩弓ちゃんの成績が下がったって…。それが俺達のせいだと、そう言いたいのか…?!だからサップを…』

『何も貴殿方のせいだとは一言も申しておりません。全ての責任はサップだと、そう言っているのです。それも、アイツと来たら、お嬢様をここに残して、のうのうと一人で札幌に戻られた。職務放棄も甚だしい物です。IT流通企業の代名詞とも言える、我がワタナベコーポレーションの恥で御座いますよ。サップは』

歩弓ちゃんはグッタリと足を縮こめる様にして、ガクッとしゃがんだ。

『お喋りはここまでにしましょう。さぁ、お嬢様、会長の元へとご同行願います』

すると、ラウスは忌々しくも、Yの身体をドンと押し退けて、歩弓ちゃんの手首を強く握った。

すると、押し退けられたYはまたも立ち上がり、ラウスの身体に飛び付いた。

『待てよ…!オッサン!そしたら、歩弓ちゃんの意思はどうなるんだよ!』

俺もラウスを押え込む勢いで、飛び付いた。

『そうだよ…!歩弓ちゃん、まだ帰るって言って無いだろ!?成績が悪くなって急に転校させるなんて、聞いたことねぇよ…!』

すると、ラウスは俺達を豪快に振りほどき、雑然と俺達に言った。

『…お二人とも、そんな態度を取られるのであれば、お嬢様のお友達とて、容赦はいたしませんよ?』

『やめなさい…!!』

しかし、歩弓ちゃんはそれを阻む様に、ラウスに怒鳴った。

『…二人を、帰して』

それに、耳を疑った。

『…歩弓ちゃん…!』と、俺もYも、身を乗り出してそう言った。

『…お嬢様…。誰に物を…』

『いいから、二人を帰しなさい。私に仕えると言う事は私の指示に従うと言う事。私も付いていくから、いいわね?』

『歩弓ちゃん…!』

すると、歩弓ちゃんはゆっくりと俺達の前にしゃがみこんで、言った。

『…大丈夫。二人が帰ったらお父さんに電話してみる。これはサップも、ラウスも、横室君も、麻利央くんにも、関係ない。私とお父さんの問題だから。お父さんに直接話をしてみるね。ゴメンね、変な事に巻き込ませちゃって…』

『歩弓ちゃん…!』と、手を掛けようとしたその時、Yが俺の肩を掴んだ。

その衝動で、俺はYを見たが、Yは黙って首を二度振った。

『それじゃあラウス、行くわよ』

『…畏まりました。お嬢様』

それに、俺とYは黙ってリムジンに乗り込んだ。

帰りの道。車内は街灯が道を照らして、街並は安寧としている。

車を走らせる音だけが車内には響いていた。

その音が、どうにも、虚しく感じる。

これ以上、俺達には何も出来ないからだ。

Yも俺も、車窓を覗いて、過ぎ行く風景に目を凝らしていた。

頭の中では何一つ整理がつかない所か、綽然ともしていない。

当たり前だ。もしかしたら、と、そんな不安で埋め尽くされる頭の中でどう整理をつければ良いのか。

ぼやけた頭を抱えつつ、あっという間に駅前に着いた。

車の走る音が、止まった。

すると、バタリとドアが開く。

『さあ、着きました』と、ラウスが言葉を発すると、俺はふと、歩弓ちゃんを見た。

『…どうしたの?麻利央くん。着いたよ』

『ホラ…』と、Yが車を降りると、俺の身体をグイッと引っ張った。

『歩弓ちゃん…』と、言葉を掛けると、弱々しく、歩弓ちゃんは言った。

『私なら大丈夫。ホラ、二人とも、行った行った』

そう言われて、Yが俺の身体を思いきり引っ張った。

『歩弓ちゃん…!』と、そう叫ぶも、ドアが自動でパタリと閉まり、ラウスは無情にもリムジンを走らせた。

別れ際でも、歩弓ちゃんは此方を見ずに、そのまま車は走って行った。

『…行っちゃったな…』

Yがポツリとそう言葉を漏らした。

俺はリムジンが見えなくなるまで、それを見送る。

『…でも、歩弓ちゃんの言う通り、これは歩弓ちゃんとお父さんの問題だ。…俺達が変に首を突っ込んでいい問題じゃないよな。確かに…』

『歩弓ちゃん…』

『大丈夫だよ。マリー。信じようぜ』

そう言って、Yは俺の肩に手を置いた。

『…うん』

『あ、見てみろよ…』

俺とYは空を見上げた。

薄々と膜がかった様に、雲が一面に広がっていた。

それが何処か、切なく感じた。

『霞がかった空、だな』

『うん、全く』

朦朧として、ハッキリと顔を見せない朧月。

それに、微かな願いを掛ける。

歩弓ちゃんが、どうか無事であることを。

 

 

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