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ラストマザーの愛人

わたしの養母はものすごく美人で、若いころは村で若者同士が、【養母に声をかける順番】を争いつかみ合い殴り合い刺し違えのケンカもあったと、本人から聞きました。

(当時は 声をかける=交際を申し込む だったようです)

第二次世界大戦が終わってすぐ、仕事のために温泉地の女中奉公に出ました。
13人兄弟の長女でとても貧しく、戦後すぐで、小学校すらまともに行っていなかった養母は、下働きでしか働くことができなかったため、集団で奉公にいったようです。

飲んだくれで仕事しない父親(=私の祖父です)と、毎年のように妊娠し、一年のうち出産~次の妊娠までの間以外はずっとつわり状態でぐったり弱っている母(=私の祖母です)と、10人をこえる弟妹が生きていけるよう、仕送りするために。

女中といえば。

一般には、家事や商売の手伝いなのでしょうが、行った先は温泉街。

女中の仕事もあったでしょうが、それ以外の裏の仕事もあったと、わたしが成人してから教えてくれました。

養母は生きていくため・仕送りするために女中の本来の仕事とは別に、宴席で男性の相手もしていかなければいけなかったのだといいました。

今でいう、ピンクコンパニオンのことです。宴席で野球拳したりとか、裸の上にサシミ並べられたり、股間にお酒注がれたりとかする、あの仕事です。

2次会以降に、お客様と金額交渉の上、もっと過激なサービスをするひともいたとのこと。(サービスをする、というよりも、「お金をやる」の誘惑に負けたり、あとで自分たりが不利益にならないよう、せざるを得なかったのでしょう)


そんななか、養母は、奉公先の若旦那に気に入られました。
気に入られましたと言う言い方は平和なもので、実際は、文句を言えない立場だから、無理やり手籠めにされた、と言った方が正しい。

若旦那は奥様と離婚し、養母と結婚。元奥様は、たいそうな金額と引き換えに、若旦那のもとを去りました。

そして若旦那と結婚して妊娠が発覚、喜んでいるところに・・・

若旦那が、別の女中さんに手を出していて、同時期に妊娠発覚。

養母はショックをうけ、自分から離婚を切り出し、産み育てない選択をし、手術を受け、温泉地を去りました。

養母がなくなってから、戸籍謄本を取ってみたところ、

養母の一番最初の夫(若旦那)の欄が、

「○○と婚姻」「○○と離別」「××と婚姻」・・・など、婚姻離別が何度も繰り返されており、面食らいました。


出戻った養母は、実家に戻ったのですが、昭和初期の田舎ということもあり

【死別でない出戻りなんて恥ずかしい】と言われ、実家を追い出されました。

そして、地方都市の中心街で住み込みの家政婦になります。

そこの家のご主人夫婦がとても親切な方で、ときどきお休みを頂けたようです。

そんな休みのある日の午後、養母は大好きな映画を見に、街中の映画館へ出かけました。

映画館で映画鑑賞後、地震が発生し、養母は倒壊した映画館の下敷きになりました。

助けてという泣き声。
今助けてやるぞ、という声。
それだけはやめてと懇願する声。
ギャァという叫び声。

足をがれきに挟まれ、身動きが出来なくなった養母も、周りの人たちと同じように叫びます。

すると、がれきをかき分けて一人の男性が、「今助けてやる!」

と駆け寄ってきました。


「足が挟まって出られんのや・・・」
「もう足はあきらめるんや、斬ってでも助けてやる」
「いやや、それはいや!」

男性が斧を振り上げたとき、余震が来て、がれきが動き、養母の足が抜けました。

「おい、助かったな。斬って出したヤツもいるんや。足なくならなくて、よかったな」

養母は足は抜けたけれど、ケガをしているので立ち上がることはできず。

男性は斧をすてて、養母を背負い、がれきの中から逃げました。

男性の背で、火の手が上がり変わり果てた街の様子を見て、養母はこう思ったそうです。

「戦争で焼けてから元に戻ったのに、また空襲のあとみたい・・・」

二人はそのあと、安全な場所に移動したといいます。


「助けてくださってありがとう」

二人はそこでいろいろ話をし、そのあと時々連絡を取り合うようになり、恋仲になったそうですが、男性には家庭があったとのことでした。

何年か付き合っているうちに、復興が進み、二人は記念に写真を撮ったとのこと。

子どものころ、養母はわたしに、その写真を見せてくれました。


写真館で撮ったその写真は、普段の服装でしたが、まるで結婚写真か、新婚旅行の記念写真のようでした。

その写真を、養母はずっとずっと、何十年も大事に持っていたのです。


「おれはおまえが一番大事だが、おまえとはたぶん、この世ではいっしょになれん。せめて写真だけでも」

と言って、撮影したそうです。

写真を撮った後、養母は自分からその男性に別れを告げました。

このあと何十年もして、再開したときに、ふたりとも独り身だったら一緒になるかという話をしたそうです。


そのあと、養母はその町からから離れました。
養母は、そのあと地方都市を、住み込みの家政婦や女中、女工として転々としていたようです。


そして30歳後半のころ、病気の母親(養母の母)の世話をする人がいないとのことで、実家に戻りました。

実家に戻ってしばらくし、母親の具合がよくなったころ、

家の跡取りである、一番上の弟(養母の弟)の結婚話が持ち上がり

「30にもなって、跡取りが嫁をもらえないのは、出戻りが家にいるからだ。
出戻りの小姑がいる家に、誰が娘を嫁にやりたいものか。
だから、見合いの話もねえんだ」


と親戚中に言われ、養母は顔も見たことのない男性と再婚をすることになりました。


それが、私の養父です。

養父の家は、昔は大きな商人宿を営んでいましたが、その当時はすでに没落しており、養母は、母一人子一人の家に強制的に嫁がされました。

初めて会った養父は、養母いわく、

「頭はハゲちらかしていたけど、たぶん若いころはいい男だったんだろう」

という見た目だったそうです(私がもらわれてきた時点では、ハゲ散らかすどころか1本も生えてなかったです)

「だけど、好みじゃない」とのことでした。


養父は養母を初めて見たとき

「最高や。こんな美人ならおさがりでもええわ」

といったそうです。
(当時でも、今でも、これは大失礼な話。でも養母は大爆笑しながら振り返ってくれてました)


結婚式の最中は、養母は目の前のごちそうに夢中で、夫となる人のことはちらっとしか見ていませんでした。


が、夜になって、

背中一面どころか両腕両腿に至るまで入れ墨だらけ
手の指1本ずつ足りない

ということに気づいてヒキツケを起こしそうになったそうです・・・


養父は、若気の至りか、自分の家を没落させるほど放蕩したあと、反社勢力から足を洗った過去があったそうです。


養父は、あまりに妻が美人なため、ほかにとられるのではないかといつも心配していました。

束縛がひどく、家が貧しいのに外で働くことを禁じられていました。

それにくわえ、あまりにも姑が夫を溺愛していたことと、

ツケで酒を買い、タバコを買い、釣り具を買い・・・
かっこつけだったため、身の丈に合わない高価な服をしたててきたり・・・

アルコール依存症で、酔ったら暴れるため、ケンカは絶えなかったといいます。

養母は、つらくてたまらない時、あの写真をそっと開き、見ていたそうです。

養父母の間には子供はうまれませんでした。



養父母は貧しいあばら家で貧しい暮らしをしていました。
給料袋は、もらったその日に封を開けずに渡すものの、賭けマージャンをしてボロ負けし、自分の欲しいもの(お酒や衣類)はツケで買ってきてしまい、そのツケは当然ながら、妻に渡した給料から支払うことになる。

夫婦喧嘩は絶えませんでしたが

「それでも、まじめに仕事にはいくし、給料袋は手を付けずに渡してくれる。お酒は飲むし、ヤキモチはひどいし、すぐに怒るけれど、この人にもいいところはある」

「わたしにはもう戻る家はないし、運命に逆らう気力はもうなくなった」

こういう気持ちで、養母は養父と暮らしていました。

今の言葉で言えばセクハラパワハラモラハラなのですが、

養父はとにかく、養母のことをとても愛していたのに、愛し方を知らないせいか、養母が少しでも気に入らない行動をすると、

暴力をふるい、家庭内なのにほぼレイプ状態で性行為を強要していました。

そして、ことが終われば謝り、優しくする。

しかし次の日には元通り。

そんな生活にくたびれ、いつも離婚を考えていたそうなのですが、

逃げ出すことはできなかったそうです。


そんな結婚生活も長らく続き、

とうとう養父が50歳を超え、養母も45歳になったころ、わたしが産まれました。

ふたりの間に生まれたのでは、もちろんありません。


・・・・・・・・

わたしの出生前に実の父親の重病が発覚(大量吐血意識不明)で入院、

毎晩「今夜が峠です」と言われるため、

母親が「産めない!ほかの子もいるからこれ以上育てられない」とあちこちの病院にいったものの、

すでに安定期に入ったため、もう堕胎できず産むしかない、となり、

予定日よりだいぶ早く仮死状態で誕生、
出生後1ヶ月の入院を経て、すぐ親戚の各家に数か月ずつのサイクルで転々と預けられ最後にたどりついたのが、養父母の家でした。

養子をもらったのはいいものの、養父母はそこそこの高齢だったため、

普通の年齢の親のようには、子供の面倒を見ることができません。


ですので、わたしが家にいる間は、外からカギをかけ、絶対にひとりで外に出られないようにしていました。

「同世代の子供の親の前に出るのは、年を取りすぎていて恥ずかしい」

という養母の考え方からか、

親が参加する行事には一切出ない
運動会・遠足は子供の私も欠席させる

という風になっていきました。

私自身も、あまり子供同士での付き合いをしてこなかったため、同年代の子供がとても苦手であり、とくに遠足や運動会に出たいとは言わなかったようです。


また、養母はものすごく小柄(身長が140センチちょっと)だったため、

「自分が小さすぎてはずかしい」という気持ちもあり、

日中に外に出るのを非常に恥ずかしがっていました。


そして、養母は非常に怖がりであったため、

わたしが病気になったりすると、怖くなって近づけない、ということがよくありました。

苦しんでいる姿を見るとどうしようもない不安に駆られるようでした。

そのため私は、病気になってもそれほど看病はしてもらえなかった記憶があります。

(布団に寝かせてもらえる。食事は出してもらえるが、自分でおとなしく食べて、寝てるだけ)


また、

「養母は自分の具合が悪い時は、不安の症状がひどくて必ず誰かにいてもらいたい」

「自分以外の人間が病気になったりケガをしたりしていると、怖くなって近寄れない」

という症状がでており、

小学校に上がったわたしは、自分が風邪をひいて具合が悪くなると、

自分で保険証を持っていき、ひとりで病院の受付をしてもらい、

自分だけで診察室に入り診察を受ける

という行動をとらざるを得ませんでした。


小学校1年以降の私は、それが当たり前だと思っていたのです。


小学校1年に入る前、文字がほとんど書けない母に変わり、教科書の名前は自分で書き、道具の名前も自分で書き、具合が悪い時には、自力で病院に行って、症状を説明する、というのが

あたりまえだと思っていました。


そして、「母は病院が怖いのだから、私が一緒に行かないと」

「わたしは、自分が病気になると【不気味なもの】に変わるから、母親に頼らず何とかしないと」

と、深く信じていました。

養母はおおらかでやさしく、細かいことを気にしない人でしたが、

ただ、恐怖心だけが異常なくらいの大きさだったのだ。

養父からも、ときどきひどい仕打ちをされている。

なぜ、このひとは、ここから逃げ出さないの。

逃げ出せないほど、弱いの?

小学校に入ったわたしは、母を守ることだけ考えていました。


将来はきっと偉くなって、このひとが幸せに暮らせるように、頑張るんだ。


母は、わたしに一貫して言っていた言葉がありました。


「この世の中の女は、どれだけ勉強して頭がよくなって、
いい仕事についても、女のからだに生まれた以上、男には勝てない。

日本一頭のいい女になっても、日本でいちばんアホな男よりもずっと格下。

やりあっても、絶対に、勝てないの。

男と女はそういうもの。

男に勝とうとおもいなさんな。

負けたふりして、よこでわらっていればいい」


「お金や物は、壊れたり盗まれたり、燃えてしまえばおしまい。

でも、人間は、あたまの中までは盗まれない。

考えることができれば、生きていける。

女は男じゃないから、男には一生勝てないが、

それでも勝とうと思ったら、

一生懸命勉強して、考えて、頑張るしかない」


わたしは、押し入れの中で、
ふすまを少しだけ明けて、
ときおり、養父母のケンカや、
養母が養父に半レイプされているのを見ながら、誓いました。


「女である養母のために、勝とう・・・私が大人になったら、こんなケンカばかりしている養父母を別れさせて、それぞれ別に住んでもらって、面倒見よう」

私は、めちゃくちゃに勉強して、地元でいちばんの高校に入学しましたが、

そこでも貧乏さが原因で、無視されたりとさんざん。

偏差値の高い学校で、クラスメイトも裕福で、家庭教師に塾にと、恵まれた環境の子がほとんどでした。


かたや、私は学費は免除。教材費だけ払わないといけないけど、それらはいつも滞納。

雪の日は、車での送迎をしてもらうようなクラスメイトをしり目に、片道2時間あるいて通学していました。

このころは、ただひたすら「両親がお金あるかどうかだけで、こんなに人生が変わってしまうのか」と、ずっと落ち込んだままでした。



わたしが高校に入ってすぐ、アルコール漬けになっていた養父は脳梗塞を起こし、自由の利かない体になり、いろいろな病院を転々としました。


一度は受け入れる、と言ってくださった移送先の病院も、

養父のからだ中にはいっている入れ墨を見ると、

「これだけ入っていたら、レントゲンとかもできないし、

周りの患者さんも怖がるし、ちょっとうちでは受け入れるのは難しいなぁ。

通ってくださるならいいけど入院はちょっと・・・」

などといわれ、

やっとこさで受け入れてもらったのは、自宅から200キロ以上離れた、

山間部の特養でした。


やがて、養父はなくなりました。

養母が、一口だけ、知り合いのお付き合いで互助会に入っていたので、

私は互助会に連絡を取り、わたしと養母二人だけで、簡素な葬儀を上げました。

文字が書けない養母は、

「おまえがいてくれてほんとによかった」

と言ってくれたのですが、当時ひねくれていた私は

「ふつう、こういうもんは大人がするもんだ・・・。わたしがやらなかったら、だれがするの」

「できないからって、甘えて、自分はしなくていいなんて、ずるい」

と、なんとなく不満に思っていたものでした。


「ああ、高校の同級生は、こんなこと考えず、

自分の事だけかんがえてればいい生活をおくっているんだろうな」と。


ただ、わたしにはもう、養母しかいないので、

いっしょに何とかやっていくしかなかったのです。

頑張って入った大学も、

アルバイトをいくつかけもちしても、減免を受けても、

学業と生活を両立することができませんでした。

なぜなら、実家への仕送りが必要になったから・・・



大学2年の時、退学届けを出し、地元に戻りましたが、正社員の口は見つかりません。パートで働き始めました。
正社員で入れなくても、仕事で認めさせればいいだろうと、がむしゃらに頑張って得た、正社員の座。

それでも、大企業ではないから、月給は安め、休みは少なめ。

16連勤、サービス残業当たり前。


とある縁で結婚してからも、実家に仕送りが必要でした。


養母は、自分で手続きができないのと、

他人に金銭面で助けてもらうのを恥だと思っていたので、

生活保護を受けるのを良しとしませんでした。

実際、身内からの援助が受けられる立場なら、生活保護はなかなか認めてもらえません。


本人の年金が月に4万程度。

わたしが同じくらい仕送りをすれば、十分生きていけます。

私は結婚してからも20年くらい、仕送りを続けました。


昼は会社員を続け、休みの日は夜の仕事をすることになりました。


ある夏、お店に出ているときに、事務所に連絡が入りました。


施設でいきなり養母が心不全を起こし、そのまま息を引きとったとのこと。

葬儀は、自分一人ですべて手続きをし、執り行いました。

葬儀社の方に

「何か棺に入れてあげたいものはありませんか」

と聞かれ、実家のタンスから、養母が気に入っていた着物を探しました。

養母の和ダンスには、着物が何枚かありました。


着物が入った引き出しに、きれいに袱紗をかけたものが入っていたので、


あけて見てみました。


それは・・・


養母がいつの日か、話してくれた、

地震の時に助けてくれた、あの男性と一緒に写した、記念写真でした。


わたしは、養母がとても気に入っていた萌葱色の着物と、

その写真を、養母の遺体にのせました。

「つぎに生まれてくるならば、

この人といっしょになって、

幸せに生きてほしい」


と願い、野辺に送りました。


人はみな、幸せになるためにうまれてくるはずなのに、

どこでどう、ちがってしまったんだろう。


最初から、この人と一緒になっていれば、
もっと幸せだったに違いない。


このひとは、ほんとうにしあわせだったんだろうか。




人はみな「その人生を、その親を選んで生まれてきた」という。

「そんな人生も、そんな親も選びたくなかった」人は多いだろう。

「何が好きで、そんなものを選ぶものか」と荒れる人もいるだろう。

あえて不幸な人生を選ぶ理由は何?

だったら、通り魔に斬られる人、災害の被害者が、その人生を選んだ理由を言ってみろと、いきり立つ人もいるだろう。


不幸に逆切れする人たちに、伝えたいことがある。


それでも人は、幸せになるのを目標にする。

スタートがおかしくても、ゴールが遠くても、

心のどこかで最後の目標にする。


犠牲になりたくて生まれてきた人はいないのです。それは明白なことです。


つらい今に、生きる理由を求めることは、自分の幸せとは関係ない。

他人の不幸や悲劇に理由を求めることよりも、自分自身の内側にある幸せの種を見つけること。


わたしのラストマザーは、愛人に教えてもらったのだ。

その人一人を思うことで、どんなに能力不足でも、

直に戦う力がなくても、命を続けていけることを。


人生には予測不可能なことがたくさんある。

その中でも私たちは、幸せになるために生まれてきたのだ。


過去に幸せになれなかった人がいたとしても、


これからまだまだ生きていく人には、


最後は幸せになってほしい、と思わずにいられません。


ラストマザーが、愛人だったその人と、

次の世でいっしょになれたらいい。

そうなったら、わたしはその世界にはいないだろう。

もしもう一度うまれたら、ラストマザーでも愛人でもなく、

ただの一対の人になるのだ。


わたしは、最後の母が、この世で最期まで生きるためにえらんだ、いくつかの杖の1本であり、崖の下に落ちないための、命綱の何本かのうちの1本だったのだから。


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