「ペスト」

「ペスト」 カミュ

カミュといえば異邦人が代表作で、その主人公の「太陽が眩しかったから」という殺人の理由は多くの読者に衝撃を与え続けてきました。世界がこんなにも不条理なら人間だってそうあっていいじゃあないか、、、ともすればカフカと並んでカミュは不条理の人類代表のように捉えられがちです。

しかし、カミュの真意はこの「ペスト」の中にあり、読むときっとそんな印象が真逆になります。
僕が最も好きな小説の一つです。
異邦人と違い、ペストの登場人物たちは“天災”に対してそれぞれのやり方で抗っていくのですが、
その描き方が実に優しいのです。
”全体真理や未来幸福のための絶対正義“に対して「ためらい」を感じる倫理的感性こそカミュの本質。マイケル・サンデル「正義の話をしよう」にも通じるものがあり、あらゆる場合に犠牲者の側に立つ覚悟は村上春樹がイスラエル講演で述べた「卵と壁」そのものです。人物造形の包容力は司馬遼太郎のようで、それぞれの見せ場は震えるほど格好いい。

天災は、追放状態をもたらします。極限の孤独の中で自分の悩みとひとりぼってで向かい合うことを人間に強制し、ふと勇気を振り絞って誰かに気持ちを打ち明けようとしても、話し相手のどのような返事もたいてい心を傷つけるだけに終わらせてしまう。それで相手と自分が同じことを話していなかったと気づき、やがて過去や未来という時間の展望が失われて、記憶や希望が消える。愛や友情も持てず、絶望に慣れてしまう未来の囚人になる。
それが天災。きっと誰にでもそういう恐ろしい状態を経験しかけることがあって、だからこそ異邦人があれだけ人を惹きつける魔力があるのでしょう。

この小説の素晴らしいところは、そんな恐ろしいペスト“天災”の対義語として“自由”であることを挙げていることです。
“可能な限りの洞察力がなければ、真の善良さも美しい愛もない”
言ってもわからないという諦めを乗り越えて、「言わなければわからない」という言葉の重要性を信じる、闘いの記録。“あるさ。共感ということだ。”
“ありがとう、いまこそすべては良い。”

忘れないこと。それが残されたものの責務であり、戦いや友情や愛情、経験と記憶を魂と体に刻み、忘れてはいけないという倫理的な結論に本作品は辿り着きます。他者を断罪せずにいられない矛盾に対して、その認識と記憶だけで充分なのだと。
人々は忘れてしまうもの、それは強さや癒しでもあります。しかしだからこそそれに抗い記録をすることが必要なのだ、、、、

そういった希望を持った決意の静かなクライマックスの後、そっと、しかし決して天災は消滅することがないという不穏な仄めかしで物語を締めることで、これが現実の我々にも他人事ではないのだと実感させてくれる構成にもなっています。

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