坂口安吾『FARCEに就て』 


『ピエロ伝道者』に通じる話だな。
道化(ファルス)
芸術という語彙を排してなべて一様に芝居と見なす
之を創る「精神」にのみ観点を置く
・ちょっと趣味が合うところが多いかな。殺したくなる。
・こういう、既存の語彙を既定の使われ方のまま検索して丁寧に作文するのではなく、書こうとしている文章は、「やってんねぇ」ってなるな。
・なべて芝居として見なす、というのはともかく、このあたりちょっと現象学的エポケー味あるね。
高い精神
・対「ストーリー」としてfarceはありうるかね。嫌いなのよね、「ストーリー」、「物語」。ビジネスでも言われたりするし、小賢しい感じのやつがよく言う語彙としてのそれは。
写実の話。
・あるね。似たようなのには「言葉という道具」「コミュニケーションのための道具」とかいう話も。そんでテレパシーとか言っちゃう。バカバカしい。なぜ自分に生じたその「体感」が相手と「同じもの」だと言えるのか、相手は恋人を思って悲しむとき、その恋人と私は恋仲ではない。その人が恋人を失ったのであり、私は失ったのではない。「本当に悲しんでいるのがわかるじゃないか」みたく窃視魔よろしく覗き見根性からテレパシーを擁護するにして、そういうところわかってないなら何もわかってないのと同じだ。そもそも、児童に、生活苦というものがわかるわけがない。結局のところそこでもまた対象(の意味)の軽視だ、起きているのは。
私が夕陽を綺麗だと言うとき、バカは私の振る舞いから夕陽を探ろうとする。同レベルの話だ。

「地球に表紙をかぶせるのがいちばん正しい」。良い表現だ。

蛙の話(蛙の話か?)再び。

高い芸術精神。
・或る種の人間は、「人間なんてみんな同じだ」とかそういうヒューマニズムを有する。こんなものは「ソクラテスはウンコする、五番地はウンコする、同じ人間だ」程度の話だ。推論の誤謬を言っているのではない。ソクラテスが――その評価の内実に優劣や正誤はあるにせよ――高き者として位置づけられているのは、あの空っとぼけっぷり――あいつわりと独りで思索している(『饗宴』序盤)し、独りでべらべらしゃべる(『クリトン』『国家』終盤)――や、その皮肉の上手さ、あと物を考えることができるということ、そういうところにある。クリプキやなんやはとりあえずどうでもよい。
ソクラテスもウンコするだろう、『1984』のオブライエンによる破壊によってあの能天気な男女が破壊されている場面で我が意を得たりとなんだか自分が偉くなった気になるようなやつ――他人の失敗や苦労の振る舞い(外見)が大好きなやつらだ――もいるだろう。しかし、人間はその最も尖ったところ、最も凹んだところに、その人間の随が表れているものだ。「部分」に「全体」が乗る。乗せる。それが<表現>だ。
述語の束(ラッセル、ストローソン)のような、平坦化された述語の束が個体ではない。或る瞬間、或る場所での、或る言葉に次ぐ沈黙の重さ。そのささやかな、ラッセルなら述語としてすらとりあげないようなところに、重さがある。「コミュニケーション」はなべて制御(サイバネティクス)にすぎない。何かを想うというのはそういうものではない。
坂口の言う「純粋な言葉」とは、泥だらけの言葉である。

空想の話。
さて坂口は空想の話のなかで「感じられる世界」とか言う。このあたりはフッサールが「志向的対象」――それは三角形の円でもオブライエン(『1984』)でもピラミッドでもいいんだが――を思い起こさせるが、空想とは、推論や想起の試みといった意識作用とは異なるにしても、意識作用であり、空想の所産をも私は意識するのであり、なぜここで鍵括弧つきであろうと「感じる」などと言ってしまうのか。
「実物を掴む」「形がない」というように、ここで坂口はいわゆる物体を念頭に置いている。物体が空想に対置されて「現実」と位置づけられている状況――いわゆるノンフィクションものだとか事実をもとにした映画などをそれだけでありがたがる話ともつながるか――を念頭に置きつつ、「感じられる世界の実在すること」を言う。触れない、眼球に映らない、そういうのとは異なるものとして「感じる」と言っているわけだろうが、坂口の趣味ではないとしても、人はもはや口無しの著者がその著書をろくに読まれもせずに貶されあるいは褒められという不正に怒りうるものであり、またそれを単なる「マウント」として、自身の虚栄心を棚に上げて相手を(「内心」で)貶めてやりすごしたり、そういうことは十分に「現実的」なわけだ。触れたり眼球に映じなくとも。坂口の、物体のレアリテへの対抗としての「感じる」うんぬんは、空想ないしはファルスを十分にその特殊性に従って位置づけできているのか。なるほど後にファルスはよりいっそう語られるが、この箇所は、「感じる」うんぬんは、よろしくない。写実に関して優れた攻撃的な表現ができただけに、この箇所を書く羽目になったんだろうか。気に入らない。そこらの心身弱者がとびつきそうなちゃちい言葉遣いだ。それ自体は坂口が悪いわけではないが。


この話は喜劇が悲劇に見えたり悲劇が喜劇に見えたり、そういう話とも通じるんだろう。ファルスということで思いついたのはやっぱバタイユ『眼球譚』だが、喜劇でも悲劇でもない、あれは。たしかあの小説では己の行為になにもリアクトがないこと、虚無、そういうのが書かれている箇所があったが、あれは「現実性actuality」の極限みたいなもんなら、バタイユも坂口と似たようなことを意識していたところはあるだろうが、あれはマルセルとの再会のための儀式としての乱痴気、暴力、死であり、このあたりどうなのか。どうも違う感じがする。坂口の『風博士』でも呼んだほうが早いか。




正気か?