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フッサールについてちょこちょこ

陰湿なんは嫌いだからあらかじめ書いとくが、この記事はそんそんさんという人の記事、正確には彼が参照しているらしいサラ・ベイクウェルという人による文章に対する記事である。そんそんさんの記事は明確な引用箇所以外もほぼ引用なので、主張というよりは読んだ本の紹介という面が強いだろうと思っている。私が気に入らないのはその本の著者である。

まず「生活世界」についてだが、たしかにまとまった記述がなされているのはいわゆる『危機』のなかである。それはべつにかまわない。しかし、
「知覚される事物そのものが、常にそして原理的に、物理学者が研究しかつ学的に規定されるところのまさにその当の事物にほかならない」(『イデーン 1-1』、みすず書房、225頁)
「物理学者が観察し、実験をなし、絶えず見つめ、手に取り、天秤に載せ、溶鉱炉のなかに入れる、その事物、ほかのいかなる事物でもないこの事物こそが、重さ、湿度、電気的抵抗等々といった物理学的述語の主語になるのである」(上掲書、227頁)
このように、『イデーン』一巻の時点で、『危機』で問題視されていた「客観主義」、あるいは「精密な」学問と個体との断絶みたいなものに対して、フッサールは異を唱えている。晩年――『イデーン』は晩年の著作ではない――にフッサールはコロッと心変わりしたとかそういうことではない。
補足。『イデーン』の第三巻の学問論の部分は1912年の最初の草案にまったく依拠しているらしく、また同書の二巻に関しては、「新しい完成原稿を作成した」のは1915年だったらしい(フッサール『イデーン 2-1』、みすず書房、編者(マルリー・ビーメル)の序文より)。

ついでに書いておくと、上記のように、フッサールはいわゆる「主観性」、いわゆる「クオリア」などを称揚するわけではない。そうした態度はいわば「客観的な」領野は他の学問に譲って「私秘性」の領域へ引き下がる撤退戦みたいなものだが、その考え自体が、フッサールが上の引用で論難している「客観主義」――自然科学ではない――がよく言う、「単なる現象」「主観的なもの」という位置づけを踏襲しているものである。このような理解の是非については措く。このような理解は河野哲也『善悪は実在するか?』という、図書館にあったら知的好奇心のある生徒は手に取ってしまうだろう著作でも採用されている。私が億万長者だったら市民図書館に『イデーン』や『論研』をばらまいているかもしれない。

つぎに身体性だが、これは『イデーン』第二巻で集中的に取り上げられている。他人の話と合わせて引用しとく。
「――われわれが一緒に生活し、互いに言葉を交わし、握手して挨拶しあい、愛情と反感、信念と行動、発言と反論の中で互いに関わりあっているときや、われわれを取り巻く諸事物をまさにわれわれの環境(Umgebung)と見なして、自然科学の場合のように《客観的な》自然としては見ていないときに、われわれがいつも採用している人格主義的な見方は〔自然主義的な見方とは〕まったく異なる。したがってそれは自然的態度の見方であって、特別な補助手段によってはじめて獲得され維持されなければならないような人工的な見方ではない」(『イデーン 2-2』、みすず書房、13頁)
つまり、フッサールにとって他人は感情移入によって構成される、というよくある話は、テクストに照らして検討されなければならない。
「他の自我に理解されるのは、私の自我ではなく、まさに彼の自我であり、諸体験や《主観的な》現出の諸様態などに内在する私の主観性ではなく、彼のそのような様々な主観性である」(『イデーン 2-2』、40頁)
これはもっともな話で、私は他人の痛みを痛むことができない。他人が或る地点から事物を見るとき、私は同じ事物を見ることはできるが、他人の立つ地点から同時にその事物を見ることはできない。そしていかにフッサールについてありきたりな「批判」をしようと、私は、或るものに関する私の理解にもとづいて他人の話を聞くのであり、また、他人の考えにもとづいて考える。とりあえずこの引用箇所は、私が他人へ「感情移入」するという、もしかしたら私の恣意の強調と見なされているかもしれない話について、フッサールは、異なる自我からの私に対する「感情移入」についてもそうだと言っているのだから、そのような見なしは当てはまらない、ということを明らかにするだろう。レヴィナスに救いを求めても無駄で、レヴィナスもこの点については正当に「他者は私ありきだ」(『全体性と無限』)と書いている。それこそレヴィナスまで時代を進めるなら、そのころにはフッサールもたしか『デカルト的省察』で、他者が私自身の一部になってしまうような理解について述べている。
むしろ、他の自我について言えば、今後もし『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のようなロボットが出てきたと想定するとき、自分に関する自分の理解にもとづいて自分は他人を「理解」しているという、認識の源泉としての直観に依拠した考えをとらないとすれば、人工知能イライザとのチャットをしていた人がイライザを人ではないとなかなか信じられないとか、そういうことをどういうふうに位置づけるのか、かなり難しくなるんじゃないかとも思う。フッサールがここで述べていることは、感情移入も、他なる自我は、自我に還元されえないということである。

とりあえずこんぐらいか。



正気か?