埴谷雄高、高次元の観念的【執筆論】

埴谷雄高、高次元の観念的【執筆論】

埴谷雄高は、端的に言って、高次元である。一般的な物の考え方ではないことは自明の理だが、それにしても、よくも例えば『死霊』の様な小説を思い付いたな、と称賛せざるを得ない。埴谷雄高が、他の小説家と比べて、優れているとか、そういった話ではない。ただ、如何にも高次元という言葉が似付かわしい小説を書いているのだ。思想論、政治論、にしても、同等の事が言えるだろう。そして、忘れてはならないのは、埴谷雄高は高次元であるが、観念的だ、ということである。現実的ではない、形而上学だということだ。頭の中の話なのである。そして、そいうった状態で、執筆を試みているのである。

埴谷雄高、と言えば、すぐに浮かぶのが、観念的だということだ。まるで、現実の人間関係がないのである。どこか、異常に変わった小説内容であって、それは実に思想的である。思想は、観念であるから、埴谷雄高は思想小説を書いている、と言っても良いくらいのものだ。そういった、一般の書物とは、遠くかけ離れているという意味においても、高次元、という言葉は、適切だと思う。しかしそれは、観念領域での話であって、小説に観念性を認めない読者は、埴谷雄高のことを高次元、とは言わないかもしれない。飽くまで、自分の主観によって、埴谷雄高は高次元なのだ。

埴谷雄高、高次元の観念的【執筆論】、と題しているが、述べて来たような環境で、埴谷雄高は執筆していると言える。何度も述べて居る様に、埴谷雄高は観念的という範疇において、高次元である。しかし、埴谷雄高の信奉者である自分としては、高次元の観念的【執筆論】、と言って置きたい。埴谷雄高が優れている、と自分は思うからである。一度でも、自分の人生の危機において、自分を救抜してくれた小説家に対しては、恩を感じるものだ。決して悪くは言えないだろう。そういった意味においても、高次元な埴谷雄高は、様々に人を救っているから、観念的だということを非難しないし、こういった、【執筆論】に、自分は感化されるのである。これにて、高次元の観念的【執筆論】、を終えようと思う。

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