埴谷雄高論 ー自分の中のその位置ー

埴谷雄高は、『死霊』と言う小説を読めば、大体どういう小説家か、分かると思います。長編が苦手な方は、短編の、『闇の中の黒い馬』が、入りやすいかと思って居ます。

埴谷雄高、第一主義者として、云うのもなんですが、はっきり言って、何を言っているのか良く分からない箇所がいくつも有ります。換言すれば、それだけ奥が深く、研究対象にしやすいということになります。

言ってしまえば、埴谷雄高の良さは、内容が自由だということ、つまり、読み手も自由に読んで良いということ、結句、小説執筆時の、参考にし易いということに尽きます。

埴谷雄高の言葉を、昔雑誌で、川上未映子さんが持ち出していた時、驚いたのですが、こういってしまえば、楽になれるという言葉は、小説はどこまでもどんな文体でも内容でも自由に長く書いて良い、です。

この無限創造は、埴谷雄高が考えた訳ではないでしょうが、結果、埴谷雄高の小説からは、無限創造が、感じられます。例えば、埴谷雄高は、『迷路のなかの継走者』ー読者についてー、の中で、

すべてにどうでも好い私はただひとつ私の上に取り除きがたく課された問題のみを論ずることが好きである。

『迷路のなかの継走者』ー読者についてー/埴谷雄高

と述べている。どうでもいいことを、論ずる、これは、云わば文學の極地である。何の意味もなさないもの、ー筆者にとってどうでもいいことー、を述べるなら、読者はどう付いて行けば良いだろう。

しかし、それも自由なのである。自由な様に読んでいいというのは、読書解放の極地に我々を導くだろう。内容が分からなくてもいいのだ、埴谷雄高すら、戯言を行っているのだから。しかし、この状態までに至った埴谷雄高を、自分は尊敬している。それは、読み手に強制しないからである。読む時に、無関心であってもいいよ、と埴谷雄高は言っているかのようだ。埴谷雄高は、先生、と呼ばれるのを嫌ったそうだ、埴谷さんで良いですよ、と言ったそうである。また、安部公房を見出したのも、埴谷雄高だとされている。詰まるところ、埴谷雄高は、自分のために生きているのではなく、他者のために生きているのだ。

強いないことは、我々を自由にする。自分は、芥川龍之介を研究して、発狂しそうになったところを、埴谷雄高に救われた。文學は、もっと自由なんだ、と言うことを教えてくれた、埴谷雄高には、今でも頭が上がらない。

そういった意味において、自分にとっては、埴谷雄高は、文學の崇拝対象である。ー自分の中のその位置ー、埴谷雄高は、宇宙を司る、天才だと思っている。

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