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安部公房ー随筆集、鞄(笑う月)に関してー

安部公房ー随筆集、鞄(笑う月)に関してー

安部公房の随筆集、『笑う月』からの『鞄』という随筆の抜粋に取り掛かる。それにあたって、今回で、随筆集『笑う月』の考察も、一旦終了となることを述べて置く。ただ、『発想の種子』に関しては、『箱男』との関連が見られるので、後論で抜粋することを、明記して置く。安部公房の随筆とくれば、多くの人が食い付くと思われる。自身も、昔から考えると、この随筆集を何度読んだか分からない程だ。それでも、こうやって考察という形で読解すると、また異なる発見があるものである。娯楽で読むのと、考察で読むのとでは、例え随筆集であったとしても、或る種の違いが出て来るものなのだ。今回は、『鞄』という随筆を探求しようと思う、それにあたり、重要箇所を抜粋するが、幾分、変わった随筆だという事を、先に述べて置く。

まずは、重要箇所を抜粋。

「この鞄のせいでしょうね。」(中略)
「ぼくの体力とバランスがとれすぎているんです。ただ歩いている分には、楽に搬べるのですが、ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことの出来る道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行先を決めてしまうのです。」

『鞄』/安部公房

実に奇妙な話なのである。前衛的だと思うし、「鞄の重さが、ぼくの行先を決めてしまうのです。」などは、如実に、運命、という言葉を思い出させる。宿命とも人生とも言えるだろう。そんな馬鹿なことがあるだろうか、という感じだが、何か、変わった発想だな、という感を拭い切れない。鞄を手放す提案を、主人公は、この台詞の青年に提案するが、断られてしまう。まさに、不自由、という言葉が適切な感じを受けるし、とにかく、変わった話なのだ。ここまで変わった設定を持った安部公房の作品も珍しい。これは、安部公房文学の舞台裏というよりは、表だった、安部公房の奇抜な発想の形態を持った随筆である。そんな馬鹿なことが有り得るのか、と言いたいくらいに、しかし、絶妙に面白い。

今度は、青年が仕事することを引き受けた主人公が、青年が去ったあとに、鞄を手に取るところから、引用する。

なんということもなしに、鞄を持上げてみた。ずっしり腕にこたえた。こたえたが、持てないほどではなかった。ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった。(中略)気がつくと、何時の間にやら私は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっているのだった。(中略)そのうち、何処を歩いているのか、よく分からなくなってしまった。

『鞄』/安部公房

鞄の重さに洗脳され、歩けるところだけを歩いた結果の、末路である。半ば、自動的に鞄に洗脳され、行く道が限られてしまったのだ。しかし、この危機的状況を、主人公は全く奇想天外な発想で受け取る。

べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

『鞄』/安部公房

この街が迷路の様になっているのか、それは分からないが、ともかく、最後の台詞、「私は嫌になるほど自由だった。」は、運命に身を任せた主人公の、或る種の達観が表されているだろう。鞄に託した思いが、其の侭自然と溶け合って、運命論に発展している。この『鞄』という随筆をどう理解すれば良いのだろうか。まさしく、『笑う月』の夢解釈のような、現実の夢解釈としての小説、『鞄』である。しかしこうも言える、現実は思った通りには運ばない、時に人は、運命に身を任せるのだ。そのほうが気が楽で、気が楽だという事は、即ち自由だ、という風に。

上記した点を踏まえて思うに、この『鞄』という随筆は、安部公房の作品の中でも、非常に変わった作品だということである。無論、この随筆集『笑う月』自体が、非常に変わっているのは事実だが、特に『鞄』に至ってはその変わり方は異常であると思われる。これにて、安部公房ー随筆集、鞄(笑う月)に関してー、を終えるとともに、安部公房ー随筆集、(笑う月)に関してー、の3回の読解を終えるが、この『笑う月』という随筆集は、本当に変わった随筆集なのである。初めて読んだ時の衝撃が、今でも忘れられない。是非、安部公房文学に興味のある方には、読んで貰いたい一冊である。これにて、安部公房ー随筆集、鞄(笑う月)に関してー、を終えようと思う。

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