到着
飛行機での目覚めは最悪だった。頭の中がぼんやりとしたままで、けだるさが残っている。浅いリクライニングで長い時間を過ごしたためか、腰も痛い。
ほぼ満席の機内では、どうしても周囲にいるひとの存在が気になってしまう。眠っている間もうっすらとした私の縄張りの境界に、絶え間なく何かが近づいてくる感じだった。
到着前に配られたサンドウィッチを食べたあと、アナウンスの通りに足元の荷物を片付け、座席のリクライニングを元に戻した。
着陸の衝撃はほとんどなかった。後方の乗客からの口笛と拍手を受けた機体はランウェイをしばらく走行したあと、静かに停止した。
そこから変わらず早口で喋る客室乗務員の言うことは、半分も理解できなかった。周囲の乗客たちもアナウンスには構わず、さっそく携帯電話で話し始めたり、荷物入れを開けて大きなキャリーバックを取り出したりしている。
隣の席が空いたあとに頭上の荷物を取り出そうとすると、白人の男性が何も言わずに私の重たいブリーフケースを降ろしてくれた。その仕草はあまりに自然で、私はお礼を言うタイミングを失った。そのまま流れるように出口に向かい、事前に教えられたとおり入国審査場を目指した。
「入国の時に何か聞かれたら『Sight seeing』だけでいいからな。余計なことをいうと、面倒くさいことになるぞ」
初めての海外出張のときにヤスヒロ先生に言われた言葉を思いだした。さすがに今回これを使うのはマズいだろう。順番を待つあいだ、徐々に不安が募ってきた。あらかじめ台本を書いておけばよかったのかもしれない。のろのろと動く列について歩きながら準備していた書類を何度も見直し、頭の中で受け答えの文言を繰り返した。
緊張して迎えたシカゴでの入国審査は、最終の目的地と受け入れてくれる大学名を告げただけで、あっけなく終わった。
“Welcome to the States”
「合衆国へ、ようこそ」
そう言っただけで、にこりともしない入国審査官から赤いパスポートとビザの書類を受け取ったあと、案内板に従ってバゲッジクレームの大きなターンテーブルの前に進んだ。
突然、けたたましいサイレンの音が鳴り、ベルトが動き始めた。思わず周囲の旅客たちを見回すと、みな平然と荷物が運ばれてくるのを待っていた。
乗り継ぐ国内便の出発時間まで、まだ2時間あった。焦る必要はないと自分に言い聞かせながらも、目では斜め上の投下口から勢いよく吐き出される荷物を追い続けている。
ようやく出てきた自分のスーツケースを取り上げて、乗り継ぎのチェックインをする別のターミナルに向った。
スーツケース1個と、その上に載せた分厚いナイロンのブリーフケース、そして背中のバックパックが私の持ち物のすべてだった。これまで自宅のマンションにあふれていた本や雑誌も、クローゼットに入りきらない服やがらくたも、いまはもう私の手元にない。
次のフライトの出発ゲートにたどり着くまでのほうが、入国審査より骨が折れた。今度は一緒に動く群れも水先案内人もいない。途中で何度も立ち止まっては案内板を確認した。ここから乗り継ぐターミナルまでは遠く、モノレールに乗って移動しなくてはならないらしい。
スーツケースを預けて保安検査を終えたとき、窓の外は一面のオレンジ色に染まっていた。遠くの地平線に沈む夕日のまわりが赤く輝いている。しばらく立ち止まり、上からゆっくりと藍色に変わっていく空を眺めていた。
ターミナル内のレストランやパブは多くの旅客で賑わっていた。その人混みの中では、とても何か食べたり、買い物をしたりする気にならなかった。早目にゲートの前に座って出発便の案内を待つことにした。
搭乗の案内とおぼしきアナウンスのあと、乗客たちがゲートに向かい始めた。それを合図に私も読んでいた本を閉じ、荷物を持って列に並んだ。
シカゴ・オヘア空港からテネシー州ナッシュビルへは1時間半ほどで着く。予定どおりとはいえ、今からだと空港に到着するのは21時を過ぎるだろう。遅い時間に迎えに来てくれるヴィネに申し訳ない気がした。
”Did anyone drop the purse?”
「誰か、お財布を落としませんでしたか?」
乗客が搭乗したあと、ざわついている機内で乗務員が声をかけた。
一瞬の沈黙のあと、全員が前方にいる二人の乗務員を注視した。
次の瞬間、二人はシートベルトの見本を取り出してみせた。
機内で爆笑の渦が巻き起こった。続いて、型どおりの安全確認のデモンストレーションが進むたびに乗客は笑い転げ、最後のライフジャケットを膨らませる実技では、全員から拍手が贈られた。
"They are funny!"
「面白いわね」
"Yes, indeed!"
「ほんとうに!」
見知らぬ隣の女性が声をかけてくれた。そのあとも、途中で配られたコーヒーとクッキーを食べながらありきたりな世間話をしていると、あっという間に着陸の時間になった。
"Ladies and gentlemen, we are now approaching our final destination, please make sure your seat belt is securely fastened, and your seat back and tray table are in their upright position."
「皆様、当機はまもなく目的地に到着します。シートベルトをしっかりと締め、座席の背もたれとテーブルは元の状態に戻してください」
"Please turn off all electronic devices and place your baggage under the seat in front of you or in the overhead bin. "
「すべての電子機器の電源を切り、手荷物は前の座席の下か頭上の荷物棚に入れてください」
"This is the last flight arriving at Nashville International Airport today. For those passengers with connecting flights, I'm sorry, we can't help it."
「当便は本日ナッシュビル国際空港に到着する最終便です。お乗り継ぎのあるお客様、申し訳ありません、私どもではお手伝いできません」
乗客は再び、どっと沸いた。
到着したターミナル内の売店やレストランはすでに閉まっていた。まっすぐバゲッジクレームに進み、二度目の荷物の受け取りを済ませて出口に向かった。
大きなガラスの扉の前に、白いサインボードを持った浅黒い肌の男性が立っている。
Dr. Makoto Harada
ボードには、大きな文字で僕の名前が書かれていた。
"Vinet?"
「ヴィネ?」
"Yes, are you Makoto?"
「イエス、君がマコト?」
間違いない。写真どおりの彼だった。
"Welcome to Nashville!"
「ナッシュビルへようこそ!」
固い握手とともに、僕のナッシュビルでの日々が始まった。
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