フェルメール「牛乳を注ぐ女」を描写してみた

2023年6月22日
白い壁の部屋で女は牛乳を注いでいる。腕まくりをした頑丈な腕で赤茶色の瓶から白い牛乳を注いでいる。牛乳は赤茶色の色をした土鍋のようなものに注がれている。鍋の回りには5個か6個のパンが置かれている。鍋と一緒に青色の透明の瓶も置かれている。その瓶は蓋が閉まっている。一番手前には丸い形をしたパンが、同じように丸いバスケットに置かれている。土鍋が置かれているテーブルは、やや白味がかった青いクロスが掛けられている。テーブルの真ん中には、全体を覆っている青いクロスとは又違った鮮やかな青色のタオルが無造作に置かれ、床まで垂れ下がっている。

女はがっしりとした体格で、髪を上げておでこを出している。頭には白い頭巾を被っている。女の顔は白に近いピンク色。口を閉じている。黄色いカーディガン風の上着を身につけ、腕は肘までまくられている。床まで届きそうな長く赤いスカートを履いている。しかし、青い腰巻きがスカートのほぼ全体を覆っている。

床は茶色で、木工の工作のような作品が一つ無造作に置かれている。窓は正方形の格子窓で、骨は茶色っぽく、ガラスは白っぽい。ガラスの色は一箇所だけ違っている。壁の奥には、女の顔よりも大きな藤のバスケットが掛けられており、さらにその奥には金色っぽい籠が掛けられている。

部屋全体に光が注がれている。

描写後、ネット上の資料を調べると、工作物は足温器であり、奥の壁下の左側にはキューピッド、右側には長い棒を持った人物が描かれているとあった。そして、それらの意味を解説しているサイトもあった。続く。

6月19日
三日置いて、再び描写してみた。今度は頭の中で。そうすると初回には描写できなかった部分が随分あったことに気付かされた。観察眼が強化されたのだろうか。

さて、一体どうして、このようなことをしているのかと言えば、佐渡島庸平『観察力の鍛え方』第2章にある愚直なディスクリプションを実践しているのだ。主観的な感想を排し、できるだけ客観的に見たのものを言葉にする。すると自然に問いが浮かんできて仮説が生まれるという。

そこで思ったのは、この牛乳を注いでいる女性は、おそらく使用人なのだろうが、誰のために注いでいるのか?もちろんご主人様なのだろうが、どういう職業の主人なのだろうか。
あるいは、フェルメールはどうして使用人を主人公にしたのだろうか?使用人の女性に特別な何かを抱いたからだろうが、それはどういうものなのだろうか。
ネット上の解説を読むと、壁の下に描かれたキューピッドから女は恋をしているという記述があったが、フェルメールは女の表情からそれを読み取ったのだろうか。そして光と影のコントラストは何を意味しているのか。疑問は尽きない。

しかしそんな思いを巡らせながら改めて絵を見ると、女は、どうせ恋なんか叶うわけがない、と牛乳を注ぎなから訴えかけているように思えてきた。そんな悲しみをその表情から感じてしまった。つまりこの絵は悲哀を表しているのではないだろうか。
これはあくまで自分の推測である。グーグルやウキペディアを参照軸として読むと、様々な解釈があることがわかる。但し、佐渡島によれば、「他人の解釈を確認する見方をするのではなく、その解釈に反論や賛成をする論拠を探しにいく姿勢で見るといい」という。

果たして、絵を見るということは、こうした仮説を立てて見るということで良いのだろうか。美術とは全く無縁の私が勝手な話を綴らせてもらった。

追伸
次は別の絵でディスクリプションをしてみたいと思います。

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