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夜の蚊

 蚊の羽音に幾度か目覚めた。目覚めたといっても、夢うつつに近い状態だった。とにかく、早くどこかへ行ってしまわないものかと、羽音に耳をそばだてたりした。
 夢見の最中だったようにも思われた。なのに蚊は、ウーンとうなって私を起こしにかかるのだ。いよいよ夢のなかにまで、蚊が押し入ってきそうになった。だから私は、夢の端っこのほうで足踏みせざるを得なかった。
 と、顔の産毛がかすかにさやいだ。意識を現実のほうへ傾けると、軽微な重みが皮膚を圧しているように感じられた。おもむろに手のひらを頬に打ち重ねる。小さなしっとりした塊を捕らえた。その後、羽音は消えて、私は数分とたたずに、待たせておいた夢のなかへ帰った。

 翌朝、着替えを済ませて、壁掛けの鏡の前を通りかかったとき、左頬に二筋のはっきりした血の跡を認めた。蚊を潰したことを思い出した。なにはともあれ、蚊に吸われた私の血が、肌の上に散っているだけのことなのだ。蚊はまるで、血糊に飲まれて溶けてしまったかのように、体躯の一部すら、赤い染みのなかに残してはいなかった。

 いや、私の血潮とともに逝った蚊よ。おまえはどこをさすらい、どこでどんな恋をしたんだ? いったいどこで生まれて、どんな姿、形をしていた? 幸せを飲んでいる真っ最中に、私の頬で命を終えてしまったおまえ。

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