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園子温「数」

2012年9月30日(日)夜10時放送
NHK ETV特集「映画にできること 園子温と大震災」より
https://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0930.html


「数」


まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。

草が何本あったかでもいい。
全部、数えろ。

花が、
例えば花が、
桜の花びらが何枚あったか。
それが徒労に終わるわけない。

まずは一センチメートルとか距離を決める。
一つの距離の中の何かを数えなくてはならない。
例えば一つの小学校とか、
その中の一つの運動場とか、
そこに咲いている桜が何本とか、
その桜に何枚の花びらがあったとか、
距離と数を確かめて、匂いに近づける。
その距離の中の正確な数を調べれば匂いと同調する。
たぶん俺達の嗅覚は、数を知っている。匂いには必ず数がある。

その町の人口が何人だとか、
その小学校に何人いたか、とか、
例えばその日のその時間に何匹の虫が、
何匹の蝶が、
何匹の芋虫が、いたか、
をきっかり、調べるべきだ。
俺の嗅ぐ匂いは詩だ。
政府は詩を数字にきちんとしろ。

涙が何滴落ちたか、その数を調べろ。
今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、
その今度とは、今から何日目かを数えねばならない。
その日はいつか、正確に数えろ。
もしくは誰かが伝えていけ。
数えろ、少なくとも伝承の中で昔の物語のようにいい加減に伝えるには、
一度でもいい、
一回でもいい、
一日でもいい、
あるいは一秒かそこいらでもいい、
その空間と、
その位置で、
その緯度で、
その思いつきでもいい、
その一瞬の中で、
何かを数えてみるべきだ。
伝えるべきだ。
教えるべきだ。
あるいは自分を数える。
あるいは飢えた自分の歯並びを数える——自分を数えろ。
お前がまず一人だと。

あるいはその歯茎の赤さを伝える。
あるいは、その哀しみを伝えろ。
数値に出せないと政治家に言わせるな。
数値で出せ、と訴えろ。
全てを数えろと言え、数値を出せと言え。

「膨大な数」という大雑把な死とか涙、
苦しみを数値に表せないとしたら、
何のための「文学」だろう。

季節の中に埋もれてゆくものは数えあげることが出来ないと、
政治が泣き言を言うのなら、
芸術がやれ。
一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。

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