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宝塚雪組『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 感想1【数と声】

2021年1月5日(火)11時~ 宝塚大劇場で観劇しました

断片的にしか記憶できていないので断片を書きあつめた8987字走り書きを蛮勇を奮ってアップします。この作品のクライマックスへの想いがあふれすぎてネタバレを避けて書くことができなくていきなりクライマックスに突入しています。解釈はいろいろあってもいいですよね!感じたままに!! ああ語り合いたい…

※1/24 その後の観劇で気付いたことを「追記」として書き加えました。こんがらがっているところもありますが初見の勢いなのでそのままにしました。

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この作品は構造が複層的で、複数のテーマが象徴的に描かれるので観る度に発見していきたいです。初見なのでいっぱいいっぱいになりました。

物語の時間としては3つの軸があると思います。もっとあるのかもしれません。
縦軸
・天使様視点の超俯瞰的な時間軸
・オーストリア・フランスの歴史の時間軸
横軸
ベートーヴェンの内的な時間軸。過去と現在、死者と生者、自分ともうひとりの自分、心に届いた誰かの言葉、憧れのひとや謎の女が出たり入ったりするゆるやかな円環状の軸
ベートーヴェンは縦軸と横軸3つの時間軸の交わる点を生きています。

空間としては、天上界(天使様と過去の音楽家たち)ー王侯貴族ー民衆の階級を表すような構造物が出てきます。ブリューゲルの「バベルの塔」を連想しました。裏返るとベートーヴェンのおこもり部屋になります。ベートーヴェンはお部屋の中でだけは階級差を感じることなく過ごせるのです。
それと舞台奥、舞台袖、盆、花道、銀橋、さらにオーケストラピットが組み合わされていて、目が足りないけれど誰がどこから来てどこへ去るか、階段の上り下りにも意味がありそうです。ベートーヴェンはじめひとりひとりが舞台上の時間と空間をきちんと生きてくれているので、ぐるぐる回る盆と一緒に地球を何周もする旅をした気持ちになりました。ショーもシルクロードなので壮大な旅の仲間になった気がします。

クライマックスへの想いがあふれてくるのでなにもかもすっとばして終盤を書きます! ベートーヴェンが内的時間をいったりきたりするのでこの感想もかなりいったりきたりすると思います。

①倍数:整然とした世界への憧れ

「タ・タ・タ・タン」ベートーヴェンがくちずさむ4つの音。
この4を倍数にする、とナポレオンがいう。
4の2倍は8、3倍は12。
数は一定の法則で整然と増えていく。

倍数のイメージを雪の結晶でかたどる映像を見上げながら、音楽も同じだとはしゃくベートーヴェンとナポレオン。

ここの場面の愛しさと切なさが胸に染みてたまらないのです。

倍数のたとえによって、ベートーヴェンとナポレオンのふたりの共通点が示されていると思いました。「万物は数なり」と唱えたピタゴラス以来、宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うという世界の捉え方があります。数の論理は整然として乱れはなく秩序立ってとても美しい世界です。

(1)カント
カントが『純粋理性批判』を著したのは1781年。
このカントが好きというのも完全一致。
カントは全く説明なんてできないけどなんとなく、人間は感性と悟性と理性でできているとか、人間の認識には分かるものと分からないものとがあるとか、人間の尊厳を論理的に徹底的に考え抜いたひとだと思います。よくわからないなりにも人間についてこれだけとことん考えてくれたひとがいるという事実そのものがぐっと胸に迫るものがあります。

ベートーヴェンとナポレオンは、「神」というわかることのできない抽象的な存在をかさに着て権力をふるうものは信じたくないし、「身分」「階級」という勝手に決められた理不尽な枠組みは変えるべきだと思い、数という論理の世界を愛して信頼していて、この世界に人間の感性と理性の自由を取り戻そうとしているのだと思うのです。

なんであの男が皇帝で、なんで自分が平民なんだ。身分という理不尽な壁を、自らの知性と学びと努力によって乗り越えたい、自分なら乗り越えられると信じているふたりなのです。目指すのは「自由」と「美」なんだろうと感じるのです。

そのナポレオンが皇帝になったと聞いてベートーヴェンは怒っていました。今回の上田久美子先生の解釈では、ベートーヴェンの怒りの底にあるのは嫉妬のように見えました。皇后たちの行列に会釈をするゲーテに幻滅するエピソードも、ベートーヴェンの階級コンプレックスの裏返しの幼さとして描かれているように思いました。ベートーヴェンは理不尽な壁を乗り越えて自由になる道をなかなか見つけられずにいます。

(2)速度と数
一方、ナポレオンは速度と数でフランス国内の枠組みを支配するだけでなく、さらにはるか遠くまで行こうとします。皇帝になったことも過程のひとつにすぎません。しかしゲーテが諭したように、彼の速度と能力について行ける者はいませんでした。

ゲーテとナポレオンの対話の場面は、彩凪翔さんと彩風咲奈さん2人が並んでいる美しさに目を奪われました。ずっと共に切磋琢磨してきた2人だからこそ、ゲーテとナポレオンとして対峙した時に、互いに自分にないものを持っていることを尊敬しつつも一歩も譲らず静かに火花を散らすような互角の緊迫感を一瞬にしてかもしだせているのだろうと感じました。

(3)数の無力さ
ならばとナポレオンは兵士を倍数的に増やしてロシアに進軍します。
けれど、雪もいわば倍数的に増えて彼らの行く手を阻みます。
雪に閉ざされたロシアで、50万もの命が奪われました。勝てると思っていたはずの数の力でもナポレオンは勝てなかったのです。

倍、倍、倍とどれだけ数を集めても兵士が無力に倒れていったように、ベートーヴェンも無数に音を生み出すけれど、その音は無力でひとの心に届かない。全てが徒労にみえてきます。

(4)負けを認める
現在のEUのような新しい汎ヨーロッパ構想を語りながら雪に阻まれるナポレオン。「生きることは苦しみ。ひとは苦しむために生まれたのだ」と自嘲のように語る、その表情は負けを受け入れてさばさばとしています。死んだ兵士の外套を剥ぎ取ってベートーヴェンにかけてくれます。その外套も二枚重ねにするところにナポレオンの倍数への執着がみてとれます。

ベートーヴェンがナポレオンにぐちります。「人並みに結婚したかった、お前はモテて(←追記:「持てて」という説をお見かけしました)腹が立つ、世の中の役に立ちたかった」など。理性的でもなんでもない。プライドが邪魔をしてひとには決して打ち明けられないちっぽけな嫉妬や願いが果たされなかったこと、負けたものをベートーヴェンが列挙してナポレオンがつっこむやりとりが淡々と続きます。ナポレオンが弱さも失敗も潔くみせることで逆に人間としての度量の大きさがみえました。ベートーヴェンはこんな男になりたかったんだろう。ここはベートーヴェンが自らと向き合い、負けを認めていく過程のように思いました。焚き火を見ながら世界が音も立てず崩れていく感じがしました。

この2人の魂の対話の場面を観られて嬉しかったです。ここは望海さんと彩風さんの関係性があればこそ成り立った場面だと思います。派手な動きもないし歌もない。ぼそぼそ話し合っているだけ。宝塚は絢爛豪華な芝居だけじゃなくこんなにも台詞ひとつひとつを空気にしみこませていくようなしっとりした芝居もする振り幅の広さが魅力なのです。これもまたお互いへの信頼感がにじみ出ていて、すべて受けとめ合える望海さんと彩風さんの2人にしかできないお芝居。きっとおふたりもこの場面を生きることを楽しんでいる気がします。こういう芝居を観られた喜びをしあわせと言うんだと思います。


②「一本の畝」:新しい世界を遺していく

でも、ナポレオンは信じた数に裏切られて終わるひとじゃなかったのです。

(1)ロールヘンの手紙
最後にセントヘレナ島でナポレオンが成し遂げたことを、ゲルハルトの妻ロールヘンが手紙でベートーヴェンに伝えてくれます。ナポレオンは馬をおりて農夫の鋤をとってまっすぐな一本の畝を作ったというのです。

セントヘレナは火山島で平野は少なく農地にできる土地は限られています。島の人びとが生きる糧を得るため畑を作っていた所に通りかかったナポレオンは鋤を借りて畝を作ってその手助けをしたのです。他人の土地を侵略し蹂躙しロシアの凍土に復讐されたナポレオン。その人生の最後に、奪うのでも滅ぼすのでも自分の権力のためでもなく、地に足をつけて畝を作ったのです。

(2)「1」から生まれるものの大きさ
倍数ではなく、最も小さい数の「1」であることがとても象徴的です。「1」は自分以外の他の誰にも割られることのできない最小の素数。万軍の将だったナポレオンは最後に一人に戻り、自分ひとりの力だけでまっすぐな一本の畝を引いたのです。わたしには漢数字の「一」のようにまっすぐな畝のイメージが心の中に浮かんできました。

たった一本の畝。その正しく引かれた一本の畝に蒔かれた種から、どれほど多くの豊かな実りがもたらされることでしょう。たった一本の畝、一見小さい仕事のように思われる「1」は、ナポレオンが後の時代に大きな恵みを残していったことをポジティブに象徴していると感じました。とても強いメッセージ性があると感じます。

この手紙の場面を観たとき、胸にぐっとこみあげてきて思わず涙が出ました。今の状況とリンクして、ベートーヴェンみたいに何か役に立つことがしたいと思っているけれどなにもできないと思っているわたしに、なにかできることがあるんだよって、ロールヘンに言われたようでした。

ロールヘン(朝月希和さん)が慈愛に満ちて美しかったので、胸に迫りました。ベートーヴェンに語りかける言葉にこめられた愛情の深さと優しさがいとおしかったです。

追記:この手紙を読み上げる声の持ち主はゲルハルトでした。代読していたのですね。その隣にロールヘンが微笑みながら立っていて、「我々の英雄」と讃える言葉のときに声を合わせているのですね。ああ、もう一度観たい。


(3)ロールヘン:新しい世界を生んだひとり
この手紙をベートーヴェンに書き綴ったロールヘンは、お産で亡くなります。生まれたこどもは無事でした。子どもに命を与えて、自らは命を失うのです。ロールヘンもナポレオンと同じく、新しい“世界”を世に送り出す仕事をしたひとなのでしょう。

ゲルハルトは医師としての自分の無力さを悲しんでいて、「遅い」とめずらしくベートーヴェンにいらだちます。その表情にロールヘンへの深い愛情がみえました。朝美絢さんはこの短いお芝居の中にひととしての弱さも温かい人間味も十分感じさせて深い余韻をもたらしてくれました。

ロールヘンも悲しんでいるだろうけれど、自分の死さえも受け入れて、子どもに命を与えられたことを喜んでいるのではないかとふと感じました。ロールヘンという存在は、自分の命を捧げて新しい“世界”を生み、送り出してくれた人々の象徴として描かれているんだろうと思いました。ロールヘンもベートーヴェンに外套を着せてくれます。言葉でベートーヴェンのいのちをつないでくれたんだと思いました。

他人からみたら不幸に思える生涯であったとしても、新しい世界を作り出せたひとの心は歓喜に満ちている

そのようなメッセージとして受け取りました。

(4)ベートーヴェンに託されたもの イメージの連鎖
ナポレオンとの対話とロールヘンの手紙。
2人の言葉がベートーヴェンに光を与えます。

「一本の畝」のイメージは、ナポレオンとベートーヴェンをつなぐ一本の線となって『第九』へと導いていくように感じました。

ナポレオンがセントヘレナ島で引いたまっすぐな一本の畝のように、ベートーヴェンは一本の鉛筆を使って音符たちをまっすぐな五本の““、五線譜の上にならべるのです。そして一本の指揮棒で導いて、新しい音楽を世に送り出すこと。
それこそがベートーヴェンの成すべき仕事なのです。

一本のペン
一本の指揮棒
一本の畝
象徴的なイメージの連鎖が美しいと感じました。

③声:ベートーヴェンの内的世界

ここからベートーヴェンの内的世界での自分との対話が深まります。

(1)ゲーテとの対話
本当に書きたいことをあなたは書けているのですか? ゲーテが問う。

ゲーテが思想的には中庸の位置で真っ当すぎる常識的な同時代人なのがいいです。彩凪翔さんの落ち着いたたたずまい、気品溢れる丁寧な言葉遣い、まなざしが常にゆるがないのも彼のぶれない心の軸を表していました。ぶれないだけにゲーテ自身は世界を変えることはない。彼は中庸の立場で今のこの世界の精神的土台となって支えている。ゲーテの真っ当な言葉にインスパイアされたベートーヴェンとナポレオンが世界を変えていくことになります。この3人は絶妙なバランスを醸し出していました。

(2)身体の中に降り積もった声 聞こえない声/聞きたくない声
今のベートーヴェンにはもうひとの声は聞こえません。
けれど、今まで関わりのあった大切な人々の優しい言葉・裏切りの言葉、父親や自分自身の罵倒もふくめて、「声」はベートーヴェンの心と身体の中にたっぷり降り積もって蓄えられています。ベートーヴェンは身体の中にためこまれた罵詈雑言の「声」に埋もれそうになるたびそこから逃れようと苦しんでいたのです。

脱線しますが、褒め言葉よりも、逆に罵倒されたり叱られたり諭してくれた言葉の方が強烈な印象を残し、絶対忘れられないと思います。ベートーヴェンが自分を大きく見せて傲慢にふるまうのは攻撃されて大きく膨れるふぐの威嚇みたいなもので、内心はほんとに臆病な小心者なのでしょう。耳が聞こえないことよりも、聞かないし、閉ざすのです。それはさんざん罵倒しつづけた父親の呪縛なのかもしれないし、父親に似ているのかもしれない。そんなことも思いました。

というところまできちんと人間の生きた時間の奥行きも感じさせて、男の(男でなくても女にもある)恥ずかしいところもまるっと生きてみせる望海風斗さんのお芝居が好きです。望海風斗さんは役の人間の心の襞にすっとなじんでいく共感能力が高くて、魂の器のサイズが並外れて大きいから、かっこわるさを決してだめなことだとは思っていない。役の人間の闇も業もすべて肯定して受け入れる。受け入れたものを肯定して昇華してしまうから、たとえ地べたに這いつくばっていても望海風斗さんのやることなすことに人品の卑しさも気のよどみもためらいなど一切感じさせない。生きていることを全力で肯定してくれる。癒やし、という言葉は丁寧に使いたいのですが、望海さんが発した歌や言葉やまなざしは心の傷口にしみこんで痛みを和らげてくれるし生きる力を与えてくれて、治癒されるような感覚になるのです。望海さんあぁほんとにすごいひとだ…


④「おまえの名前がわかった」

謎の女という存在。
女はこの世の全ての苦しみにそばにいる存在だと自らを明かします。
誰から愛されていないと感じるベートーヴェンが、全てのひとに疎まれつづけてきた女と対峙します。女は銃を構えて彼を撃とうとしています。

銃を構える真彩希帆さんの表情がとても好きです
殺そうとするほどに愛していることが伝わるから

けれどベートーヴェンはその女の名前を「運命」と呼びます。

古来、名前は神聖なものでした。気安くひとに教えるものではありません。自分の名を知られると相手に支配されると信じていました。名前を知ることは自分のものにすることなのです。ベートーヴェンが謎の女の名前を知り、その名を呼ぶことは、その存在を受け入れ自分のものにすることなのです。

追記:
モーツァルトたちが謎の女を「不幸」と呼んでいることに2度目の観劇時に気付きました。「不幸」に、ベートーヴェンは「運命」という名を与えて抱きしめたのかもしれません。

ベートーヴェンは女を強く抱擁して、自分のものとしてうけいれます。お前だけがいつも一緒にいてくれた、おまえを愛するよとささやきます。「ハイリゲンシュタットの遺書」のように一度は死を決意しながら何かをなすべくためにこの世に思いとどまったベートーヴェンが、本当の意味で自分の人生を愛せるようになるために必要だったのが「運命」を受け入れることだったという展開はとても劇的ですけれど、すっと心にしみこんできました。

人生を受け入れることとはそういうことなのでしょう。
飲んだくれの最低な父親の罵詈雑言。自分で自分に言った「死ね」という言葉。ベートーヴェンが自分と向き合い、言葉の持ち主である友人たちとふれあい、最後に再会した言葉が彼への罵倒だったのが切ないです。けれど、その言葉には強い力がありました。ジュリエッタの「さようなら」という、愛情が水で薄められたような味もしない言葉なんかより、罵倒の言葉には濃度の濃い感情が込められています。ベートーヴェンの心を深いところまで傷つけた罵倒は、「生きてやる」という強い力を与える言葉だったのかもしれないし、自分で自分に死ねと言うほどのありあまる強いエネルギーを彼は持っていたのです。

罵詈雑言、愛の言葉、裏切りの言葉、励ましの言葉。すべての強い言葉が自分と出会うべき「運命」だったのだと受け入れる。身体の中にため込んでいた言葉をあるがまま受け入れた時、ベートーヴェンは全てをゆるせて、彼を苦しめていた全てのものから解放されたんだと思いました。和解して、自分の身体から解き放って、その言葉を音楽に乗せたんだと思うのです。

ゲーテに問われた時は即座に答えられなかったベートーヴェンが、ついに見つけた本当に書きたいこと。それは、メロディしかなかった交響曲の中に、人の声つまり「合唱」を加えること。
教会の神への捧げ物から始まって、宮廷で王や貴族たちに捧げられてきたのが音楽です。その音楽に、フランス語でもイタリア語でもなく、ドイツの民衆が聞いて分かる平易なドイツ語の言葉を入れること。音楽と人の声、相異なるふたつのものを五線譜に並べて融合させて、今までになかった全く新しい音楽を世に送り出すこと。神・王侯貴族・民衆が等しく並び立って融けあう世界を音楽の中に創り出すこと。神を賛美するだけでなく、ひとの愛も憎しみも喜びも苦しみも絶望も希望もすべて音楽にすること。
すなわちそれが『交響曲第9番』なのだと思うのです。

「運命」がピアノで奏でる音はベートーヴェンの中にある音楽そのものでした。なぜ知っているのか。ずっとベートーヴェンに寄り添い続けた女だからこそわかるのでしょう。「運命」が歌い始めてベートーヴェンも声を合わせます。「運命」の声にベートーヴェンの声が重なってハーモニーとなります。なにもなかったところから音楽が生まれていく瞬間を目の当たりにしたのです。

望海さんと真彩さんがふたり歌う場面。歌の力が発揮されていると感じました。黒い背景に、望海さんと真彩さんの身体から発せられたエネルギーの光の線、熱の力が映っているんじゃないかと思いました。背景もなにもない舞台で歌だけを見せています。すごい信頼だと思いました。鼓膜がびりびりと細やかに震えて、身体に音が響いてきて、しみこんできます。骨まで震えるという菅野よう子さんの言葉はまさにそのとおりです。この歌の強さは音量だけじゃない。伝えようと届けようとする想いの強さ。望海さんと真彩さんの歌の強さも「フォルティッシッシモ」だと思ったのです。

⑤3つの「f」

ベートーヴェンが自分の人生を「運命」として受け入れるまで、そこに至る道のりのけわしさが怒涛のように場面展開で畳みかけられて突き刺さります。自分を呪うのも、自分を愛するのも、誰かを憎むのも、誰かを愛するのも、ものすごく強い力なんだと思いました。

きっと謎の女は見た目よりも圧倒的な存在のはずです。けれどベートーヴェンの目にはかわいく見えるのです。そのまなざしがなによりもベートーヴェンの耐える心の強さを示唆しているように思います。そう、ベートーヴェンは強いひとなのです。

音楽がひとの心に届くのは速さではない。
数の力でもない。大事なのは強さ。
ただ鍵盤を叩きつける力ではなく、心の想いの強さ。
自分の命をつなげる心の強さ。

三つのfには重ねられた意味があるのかもしれません。
友 "friend" のf、情熱の炎 "flame" のf、運命 "fate" のf
父親 "father" のf、失敗 "failure" のf、それを許す "forgive" のf
自由 "freedom" のf、遠く "far" のf、後を託す未来 "future"のf
ゲーテの"Faust" のf、ナポレオンの"Freedom" のf、ベートーヴェンの"Fate" のf。

きっと答えはひとつではないのでしょう。
幾種類もの3つのfが並び立つのです。
足すのではなく、引くのでもなく、掛け合わされるのでもなく、フラットに並び立つ3つのf。だから、フォルテよりも強く、フォルティッシモよりもっと強い、「fff」フォルティッシッシモなんだと思いました。

⑥喜びの歌

ひとつの声がふたつになり、重なって合唱になります。
彩風咲奈さん、彩凪翔さん、朝美絢さん、朝月希和さん…、雪組の生徒さんたちの声、声が倍になって重なり合って美しいハーモニーとなって劇場内に響き渡るのです。舞台演出としても、空間的な高低差が全て消えていき、平面だけになります。ベートーヴェンが自分の人生を運命として受け入れた時、横に等しく並びたち、つながりあい、輪が生まれるのです。

この場面をみてフェリーニ監督の映画『8 1/2』のラストシーンを思い出しました。みんなが輪になって踊る美しいラストシーンです。このラストシーンが好きなんです。
さらに歓喜の歌をうたう姿をみながら、このイメージ、どこかで記憶がある…と思い出したのが、この歌です。

一つの心 一つの声
重ね合えば 立ち塞がる 扉も開く
明日を信じて 手を取り合い
共に進もう 共に歩もう
このひかりふる路を
(「ひかりふる路 a Passage through the Light」より歌詞一部引用)

トップお披露目公演の『ひかりふる路』のオープニングと、退団公演の『fff』のラストシーンが響き合ってとけあって、これまでの望海さんの歩んできた道のりが象徴されていると感じました。望海風斗さんを照らすまばゆい光、あふれる愛、光にみちた舞台に圧倒されました。「人生は幸せだった」とさけぶ純白の光かがやくベートーヴェン。これは本当に「喜びの歌」の喜びの姿だと心で感じてうけとめたのです。

⑦退団公演

これは望海さんと真彩さんの退団公演です。

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観るまでは緊張していて、どんなつらい想いをするんだろうと思っていました。なのに別れの悲しみがわいてこない。その事実よりも、今を生きることを絶対的な肯定の力が強いのです。その力を心と身体でまともに受けとめたので、はるか彼方に"ひかりふる"未来がみえた気がしました。信じられない舞台です。

歌いながら嬉しそうにあふれる笑顔で飛び跳ねるベートーヴェンの姿に「音楽に対してとてもピュア」と望海風斗さんを評した上田久美子先生の言葉がまたよみがえってきて、こんなにもピュアな姿を舞台の上に乗せてくれてありがとうと思いました。

記憶が飛んだこともたくさんあるからまた観たいです。

この作品が好き。とてつもなく好きです。

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⑧「やるならやってみろ、運命よ。」


きっと多くの方がそう思ってらっしゃるにちがいない言葉を祈りのようにわたしも唱えます。これから先、いろんなことが想定されます。一旦退却しなくてはいけないこともあるかもしれません。でも望海さんと真彩さんと雪組さんと宝塚歌劇団はきっとくじけない。宝塚と望海さんと雪組を愛する方々もきっと負けはしない。わたしもついていこうと思います。どうか無事に多くの方にご覧になっていただけますように

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