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2019年度HEAD研究会・ビルダーTF第1回 戦後の住宅生産の変遷

 HEAD研究会ビルダーTFの委員長になりました。住宅市場の縮小や職人不足、ストック化など住宅生産も変わり目の時期だと思います。こうした時期ですので、多少視野を広げるような講義をしていこうと思います。今日は全6回の導入として、住宅生産の変遷を概観しつつ、今どのような時期なのか考えたいと思います。

住宅不足と三本柱

 戦後、日本の住宅生産は420万戸と言われた住宅不足から始まります。住宅を早く大量に建てることが至上命題でした。1950年代に入ると住宅金融公庫(1950年)、公営住宅(1951年)、公団住宅(1955年)の戦後住宅政策三本柱が制度化されます。どれも標準化された住宅や住宅部品を大量に建設するところに主眼が置かれました。

 まず住宅金融公庫ですが、これは仕様書に沿った住宅に融資をつけるものです。当時は建設資金はないものの住宅を建てたい人が多かったので、融資の資金が足りずに抽選会が行われています。住宅金融公庫と同じ1950年には月賦住宅三社(殖産住宅、太平住宅、日本電建)も設立しています。これらは毎月一定額を積み立て、住宅建設資金の一定割合に達すると残額は月賦住宅会社から融資が受けられるというものでした。例えば殖産住宅は1960年代後半には3万戸近くの住宅を毎年建てています。また、住宅金融公庫の融資を受けた工事を請け負うため、あるいは月賦住宅会社の指定工事店になるため、多くの大工が法人化し、工務店になりました。持ち家建設にあたっての住宅金融の重要さやそれが法人としての工務店の設立を促したことが分かります。ちなみにトップの画像は殖産住宅の運動会で大工さんが住宅を建てる競争をして、1棟3万円で売られました(出典:殖産住宅20年史)。

殖産住宅の広告(殖産住宅20年史より転載)

 次に公営住宅です。一番有名な公営住宅標準設計は51C型です。51Cとは何かと言うと、1951年に吉武泰水、鈴木成文らによって設計された51A、51B、51Cの標準設計があり、一番面積が小さいのが51C型でした。51Cの特徴は食寝分離と寝室分解です。この2つの原則は西山夘三らによる住み方調査に基づいています。食寝分離については食事室と寝室を分離する、寝室分解については親と子の寝室を分ける、小さい家で会ってもこの2つの要求が強いことに基づき51Cは設計されました。図をよく見ると2つの部屋の間が襖などの可動間仕切りではなく、フィックスになっており、就寝の場を分けることへのこだわりが伺えます。もう1つ、ポイントは51Cが狭いことです。12坪で家族が暮らすことを想定しています。芯々で3000㎜の幅に畳が長手方向に2枚入っています。1戸1戸を狭くできれば、それを大量供給した場合に床、壁の鉄筋やコンクリート仕上げ材、施工の工数、工期などあらゆるものが節約できます。ただ、一番節約されたのは標準設計によって個々の建物について住戸内部の設計が不要になったことだと思います。

51C型(五一C白書より転載)

 三本柱の最後が1955年の公団住宅です。写真は公団住宅内部の写真です。食事室と台所が一緒になった部屋をダイニングキッチンと呼び、洋風の生活のためのダイニングテーブルがつくりつけで置かれています。みんなちゃぶ台で食事をしていて、テーブルを持っていなかったからです。奥に見えるのが有名な公団のステンレス流しです。それまでの流しには人研ぎなどが使われていて施工も手間がかかるし汚れやすい。それに対して、ステンレス流しは部品化されていてメンテナンスも楽です。重要なのはステンレス流しを生産する仕組みです。ステンレス流しはKJ部品(公共住宅規格部品)として公営住宅や公団住宅に大量に使われることを前提に開発が行われました。ステンレス流しを開発し大量に生産すれば公団住宅等に大量に使われるのでメーカーも開発するインセンティブがあります。51Cのような住宅の標準設計と合わせて住宅部品でも同じものを大量につくる仕組みが整いました。

公団のダイニングキッチン(住宅公団資料より)

大量供給・全国展開

 このように公庫、公営、公団という仕組みが整えられ、住宅の大量供給が行われます。1966年からは住宅建設5カ年計画により、例えば第1期は「一世帯一住宅」を目標に5年間で670万戸の建設が目標とされました。これが公庫、公営、公団でそれぞれ何戸ずつといった目標に分割され、さらに全国を10の地域に分けてそれぞれの目標戸数を定めるといったようにトップダウンで計画が立てられていきました。

 もう1つ、1960年頃から、現在も活動する大手ハウスメーカーによるプレハブ住宅が登場し始めます。おそらく一番最初と呼べるのは大和ハウスのミゼットハウスで、6畳の小屋で庭先に子ども部屋として増築するようなものでした。この後、積水ハウスやナショナル住宅建材と続いていくのですが、ミゼットハウスがこの時期のプレハブ住宅の典型といえるのは住宅の平面や部品の数が極めて限られているところです。同じ住宅、部品を大量につくるので、材料や手間がどんどん減り1棟大量につくればつくるほど1棟あたりのコストは下がります。現在の大手プレハブ住宅メーカーの進出は1970年のセキスイハイムの頃まで続きます。また各社は競って全国展開しましたし、ニュータウンや鉄道沿線で戸建住宅地の開発を行います。「●棟建てるぞ」という目標があって、そのために土地があって、工場があって、営業マンや設計担当、施工部隊がいる構図です。

ミゼットハウスの建設(工業化戸建住宅資料)

 このように、1970年頃までは住宅不足を背景に住宅を大量に供給するしくみが整えられていきました。住宅そのものにしても51C型やミゼットハウス、住宅部品でもKJ部品のような標準設計、少品種大量生産の仕組みが整いますし、戸数、棟数の目標をたてて地域に分けていくようなトップダウン型の供給計画手法、また住宅市場が大きく成長する中で工務店、ハウスメーカー、公団住宅のような住宅供給主体も登場し日本の社会に定着していきます。住宅着工数も増加していく中で、住宅を供給するシステムができあがっていきます。

住要求の多様化

 こうした住宅を建てれば住みたがる人がいる状況は1970年頃から大きく転換します。1968年の住宅・土地統計調査で、住戸数が世帯数を上回り数字の上で住宅不足は解消します。その後も1住宅に複数世帯で暮らす状況はあったと思いますが、全都道府県では1973年に住戸数が世帯数を上回ります。こうした状況になると、ミゼットハウスのような少品種大量生産や51Cのような標準設計では住要求の多様化に対応しにくくなります。

 例えば、KJ部品ですが、仕様に沿った部品だけをつくっていると社会的に陳腐化します。そこで1974年には優良住宅部品認定制度ができます。こちらは求められる性能を満たす住宅部品をBL部品として認定する制度ですから、社会的に陳腐化すると売れなくなるので企業は開発や競争を続けるわけです。51Cのような標準設計も住要求の多様化には対応できないので、1975年から住宅公団はKEP(Kodan Experimental Project)を開始します。これはBL部品を組み合わせて、部屋の数や広さなど多様な間取りを実現することを目的としていました。これはメニュー方式など、住民が用意された様々なタイプの中から住みたい住宅を選べる方式に受け継がれていきました。

メニュー方式の公団分譲住宅のパンフレット

 プレファブ住宅でも施主の要望に合わせて様々な規模、形状に対応できるようになりますし、ミサワホームO型(1976)のように企画型住宅と呼ばれる特定の層に訴求する住宅も生まれます。ヘーベルハウスが先陣を切って二世帯住宅への取り組みを始めるのも1973年頃からです。

木造再注目とオープンな技術開発

 日本の住宅着工戸数は1973年に190万戸程度まで増加しますが、同年のオイルショックによって大きく減少します。これと同様の推移を見せたのがプレハブ住宅の戸数や割合です。下図は新築プレハブ戸建住宅の戸数・割合ですが、1973年まで順調に増加したところからオイルショックによって戸数も割合も一度減少します。この頃のプレハブ住宅の割合は10%前後です。行政としても戦後、不燃化・工業化を目的に住宅金融公庫の融資等を通じてプレハブ住宅を優遇してきたのですが、プレハブが思ったほど伸びない、現実として誰が大半の住宅を建てているのがという話になります。すると実際は工務店が在来木造の住宅を建てているわけで、木造住宅を対象とした取り組みも見られるようになります。1974年にツーバイフォーがオープン化した流れもありますが、1977年には日本住宅・木材技術センターができて、1982年からは地域型木造住宅の開発を目的としたHOPE計画、1984年には木造住宅合理化を目的としたいえづくり85コンペが実施され、1987年には建設省の中に木造住宅振興室が設置されます。

プレハブ戸建の戸数と新築戸建に占める割合の推移(プレハブ建築協会50年史より)

 在来構法住宅の合理化に関して言えば、1976年にMHF型という宮川工機のプレカット機械が開発されています。プレカットが本格的に普及するのは1990年頃からですが、これによって、在来構法住宅は精度向上、工期短縮、コスト削減が可能になります。同じく1990年頃からは、様々なグループ、FCの高気密高断熱構法が首都圏でも取り入れられます。このように在来構法住宅の品質や性能が向上したわけですが、注目すべきなのは、こうした技術開発がオープンな形で進められたことです。初期にはプレカット機械を自社工場に設置する工務店も見られましたが、多くは外部のプレカット工場を利用しました。断熱気密にしても、工務店とグループが二人三脚で開発を行っていますが、多くの工務店はこうしたグループを選んで加入し、手がける住宅の高気密高断熱化を進めました。グループとして構法の開発もしますし、工務店が個々の現場での実践をフィードバックしていく仕組みができあがります。

ある工務店が高気密高断熱構法(新住協)を始めた頃の現場写真(90年頃)

 こうしたオープンな技術が存在し、技術の開発や改良が進められたのは、木造在来構法住宅の市場規模が大きく、技術開発をする側が投資するメリットがあったからです。毎年40万戸、50万戸の在来構法住宅が全国で建てられているので、良い技術を開発すれば使われる量は大きい。また、オープンという面でいうと、工務店の多くは大工や職人を雇用しているわけではなく、ある意味地域にオープンに存在している大工や職人を編成して住宅を建てています。こうした大工や職人が存在するのも在来構法住宅が全国であまねく一定の量建てられているからです。

これから:市場の縮小と技術的な成熟

 最後に、現在の状況や課題について、現在の課題の1つは着工数の減少です。これは短期的には経験したこともありますが、長期的な減少は戦後初めてといっていいのではないでしょうか。ある地域で着工数が減れば、これまで事業してきた地域で新築注文住宅を中心とした事業は成り立たなくなる可能性があります。2つ目は技術的な成熟です。これまでのような地震に強い家、暖かい家、といった従来の評価の軸では差別化が難しくなると思います。

北海道で移住者を呼び込む工務店(地域の需要が減れば工務店は地域を活動する広げるか、地域に人を呼んだり、新築以外の活動をする必要が生じる)

 これを先ほどのオープンな技術という視点で見ると、これまでのようにオープン技術が地域に存在していて、直接働きかけなくても勝手に開発や改良していってくれるような時代ではなくなるように思いますし、大工や職人も減少していますから、地域にオープンに存在する大工や職人を集めてプロジェクトを編成することも難しくなっていくと思います。また、差別化の軸が多様化すれば、その差別化に必要な職人や設備は量がまとまりにくくなるわけですから、部分的であれ自社で持つ必要が出てくると思います。

 以上、ざっくりと戦後から現在までの流れを見てきました。下が触れていない点もありますが今日の話を簡単にまとめた表です。横軸が時代で足りない時代、足りた時代、余った時代で分けていて縦にキーワードが並んでいます。

まとめの表(足りない⇒足りた⇒減る)

 まず、供給計画という面から見ると、全体の戸数・棟数の目標を決めて供給する時代から、住民の要求に合った住宅を供給する時代を経て、市場が減る中で需要を喚起する必要がある時代に変わってきています。地域で言えば、全国展開・標準設計から地域性を重視する時代、さらにはある地域内の需要が減る中で地域を広げるか、同じエリアのままで担う仕事を増やすかという選択を迫られている時代になったと思います。人や企業の視点で言うと、右肩上がりのみんなが成長できた、多少無理が効いた時代から、システムが確立しその中で与えられた仕事を担う時代を経て、職人さんも企業も現在のシステムに依存しては危険だと認識するような時代になりました。最後に差別化という観点で言えば、住宅不足の時期は最低限の住宅でも売れました。それが耐震性や断熱性といった特定の軸での数字の競争の時代を経て、技術的な差別化が難しくなり、工務店さんごとに様々な要素を統合していく、耐震や断熱は前提としてあった上で自分がつくりたい住宅はどんな住宅なのか考えないといけない時代になってきていると思います。

参考文献

「住宅という考え方」松村秀一、東京大学出版会、1999年、「箱の産業 プレハブ住宅技術者たちの証言」松村秀一ほか、彰国社、2013年「マイホーム神話の生成と臨界」、山本理奈、岩波書店、2014年、「建築生産のオープンシステム」内田祥哉、彰国社、1977年

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