サバイバル

今週は、新学期の疲労と不安でほとんど何も考えてなかった。ジャックタチも一本も見なかった。なので、今ここで適当に何か考えて書こうと思う。

今日、写真家の豊と久々に会った。豊は少しよくわからない事を言う人間で、それでいて言葉に説得力のある不思議な人間だ。彼とモチベーションの根源はどこにあるのかと話していると、彼は私に対し、「結局、どこにいてもサバイブできる様になるって話でしょ?大我は。ほら、今ウクライナに飛ばされても生きれるっていうか。」と言った。正直、そんな状態は目指してもいないし、それがモチベーションになったこともないため、少々面を苦食らってしまった。「いや、自己追求だよ。自己追求はしてるものだけど、なぜするのか、どこに向かうのかが知りたい。」と、今考えると上手く会話になってない様な返しを私がすると、豊は苦笑いをして話すのをやめてしまった。

側から見て、そんな風に見えるものなのかと思うと面白い。私自身も本当のモチベーションはわからないし、豊かの言っていることが正しいのかもしれない。いや、確かに大学一年生の頃は思っていた様に感じる。あの頃は、野草を食べたり、畑を耕したり、自然を堪能し、都市で養った生物的な弱みを消そうと必死だった。しかし、いつの間にか自然と内面的な興味に移っていったのである。それはきっと自己選択を迫られた結果なのだ。

考えてみると当時のサバイブ精神というのは、青臭いながらも、なんて崇高なものだったのだろうか。力強く生命を謳歌しようとするその態度は、今の私に欠けているものだ。現在抱える悩みは、暇の産物であり無駄なことであることは、先週久々に大学を行き、そこで周囲と自分を比較し感じたことだ。サバイブ精神も暇な産物ではあるかもしれないが、そこに強い生命力が宿ってる分、無駄ではないだろう。昔の様に、初心に帰ろう。


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