メタ的演出について

これも私が勝手に考えていることなので、何か参考があったら情報求む。映画内現実と観客の間に距離があるということを、前の記事で語った。距離があるゆえに可能な演出について語る。

「心中天網島」という映画がある。この映画は人形浄瑠璃の演出方法を取り入れることをコンセプトにした作品である。ストーリーも実際にある演目から引用したものだ。ストーリーに対しては特にいうことがないので、ここでは触れない。着目すべきは、演出である、この映画では、映像の中に人形浄瑠璃の黒子が度々現れる。黒子はただそこに立っているだけであり、映画内現実に影響を与えることはない、登場人物もまるで見えてないかのように、立ち振る舞う。つまり、私たち観客にだけが認識し、そして影響を受ける存在なのだ。これは、映画内現実と観客の間、つまりその余白の中に存在する存在だと考えられる。こういった存在をメタ的演出と私は呼んでいる。

考えてみると、メタ的演出というのは一般的なものだ。演出と呼んで良いのかわからないが、スタッフロールも映画の題名が現れることもそうだろう。さらに、時間変化を表す時計の針が高速で回転する演出など、編集によって作られるものは全てそうかもしれない(cgは違う)。CMなんて、100%メタ演出だけで成り立っているとも言えるだろう。これらは映像故に可能な藻であるため、私は映画でやる必要があるものだと思う。現実の記録で終わらず、映画は現実を超越したものであれるからだ。映画の特性を使った、映画特有のものであるからだ。

しかし、メタ演出を使う上で考慮しなくてはいけないこともある。その演出が何かの表現につながっているか、ということだ。映画を作る人々は、あらゆる映像の可能性を追求している(はず)なので、こう言ったメタ演出に対して、いわば誘惑に近い感覚を持っていると思う。アイディアに逃げ、必要以上にその演出を多用してしまう危険性がある。私は全ての演出に意味を持たせたいし、その演出に必要性がある状態が好ましいと思う。演出だけに力を入れ、バランスを欠けると、どこか独りよがりの映像になってしまう予感がある。私の処女作「ダボ」もそうかもしれないし、その反省から来る考えなのかもしれない。どこか体系立てた思考こそが映像作りには必要だ。


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