虚無と映画

私が好きな映画は、生命を讃歌するものだ。人生の虚無に対して、力強く抗おうとしているものだ。そういった映画を見ると、なんだか自分の人生に勇気を持って接しようと思える。それは私自身が、虚無に対して恐怖してる故の感性だと思う。先日、フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」という映画を見た。まさしくこの映画こそ、監督自身の虚無へのもがきを映したモノだった。

〜あらすじ〜
著名な映画監督のグイドは、新作の構想と療養のため、温泉地へとやってくる。しかし、一向に定まらない映画内容と、周りの出資者に接する苦悩だけが積もっていく。いつしかグイドは、自らの理想の世界へと現実逃避する。

一見してわかる通り、グイドはフェリーニの投影であり、監督としての個人的体験をフィクションにした作品だ。この映画の大きな特徴は、映画内の現実世界と主人公(監督自身)の心的世界の境がなく、一つの作品の中で連続して映し出されていることだ。現実でプロデューサーに叱られたと思えば、唐突に過去の記憶の映像に移る。夫婦間で喧嘩をすると、ハーレム妄想の映像に移る。などなど。観客に何処からが虚構なのか悟らせないほどスムーズに移行していく。これは映画と小説ならではの表現であり、心的世界をあたかも現実と同様の地平で語れるメタ性である。

寺山修司監督の「田園に死す」も同様の構造であり、現実と虚構の境がなく、同列のものとして扱われる。「田園に死す」における虚構とは過去の記憶であり、現実世界の主人公がその中に分け入っていく。また更に、亜種として、現実世界0%、虚構(監督の心的世界)100%の割合で映像化しているのが「エンドレスポエトリー」や「フェリーニのアマルコルド」ある。どちらもホドロフスキー・フェリーニ監督自身の自伝映画であるが、演出の強度が高いためリアリズムは全く感じられないのが特徴だ。つまり、嘘か本当かわからない自伝映画という一見矛盾を感じる存在になっている。これらの作品に共通する特徴は、現実から距離を取ることによって一定のメタ性を獲得することで、現実を虚構を交えて再編集可能にしていることだ。再編集で付け足された虚構こそが、監督本人の葛藤であり、理想であり、メッセージの具現化である。

現実から距離を取りメタ的に認知する。これは、私たちの人生にも活かせるテクニックではないだろうか。映画に対して鑑賞者がいるように、人生を映画に見立て、それを鑑賞する自分を置く。映画の観客は、主人公が不幸な目に遭おうと幸運に恵まれようと、それを一つの物語上の演出と捉えて楽しむことができる。鑑賞者である存在を自分の中に置くことで、人生の不幸・苦しみ、つまり”虚無”を、一つ乗り越えることができるのではないか。「8 1/2」は、まさにその考えを実践しようとしたフェリーニの痕跡だと私は思う。最後のシーンでこういう言葉が綴られる。「人生は祭りだ。共に生きよう。」

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