映画のメタ性

今回は、映画のメタ性というものについて考えてみる。私が勝手に作った言葉なので、他の人間が違う言葉で表現しているかもしれない。情報を求む。

映画は、ある種の人生の覗き見である。観客は、描かれている登場人物を一方向的に見ているのであって、あちらから観客を覗くことは無い(特殊な演出下の元ではある、演劇では多用)。カフェで友達と会話している時の視点と、カフェで話し合っている主婦を見ている時の視点に差が生まれるように、一方性はというのは、観客に映画そのものを俯瞰させ、観察させる効力がある。これこそが、私の言う映画のメタ性だ。辞書によると、メタとは”視点の外側にたって見る”とあるように、映画という構造上、メタ的視点から観客は逃れることが出来ない。現代では、4DXやら、VRやら、ゲームにするやら、様々な技術と手段を使って、メタ的視点から逃れる努力がおこなわれている。しかし、やはり映画というのは現実の外側のモノをである以上、限界がある。これらは虚しい努力だと、勝手に私は思っている。極論を言えば、ディズニーランドに行った方が、もっと現実の地平で、自らの五感全てを使って没入できるはずだ。映画でやる必要はないのかもしれない。むしろ、メタ性というものを肯定した上で、これを上手く利用できないかと考えることこそが、映画でしかできない表現を突き詰める上で重要なのでは無いだろうか。

メタ性を肯定して作られた映画をいくつか知っている。一番日本で知名度が高い作品で言えば「エヴァンゲリオン」が挙げられるだろう。エヴァンゲリオンでは、主人公であるシンジ君の心的世界の描写を映像化して、物語の中に挿入している。シンジこれは人生の覗き見というよりも、主観の覗き見と言って表現した方が正しい。主観というのは、”主”と漢字にある通り、その本人の中にしかないモノであり、日常生活の中でどうしてもメタ化することが出来ないモノである。もしメタ化しようとしても、それはまた主観によっておこなわれる作業であり、どこまで行っても完全にメタ化出来ない。しかし、自分の内部のものである主観を外に具現することで、初めて間接的にメタ化できるかもしれないと、私は思う。そして、その対象こそが映画というものだ。小説なども、主観を投影できる媒体の一つではあるが、映画というのはより感覚に近い状態で投影可能なのだ。メタ性を否定するのではなく、メタできないものをメタするために使う。これこそが、映画の性質を生かすということだ。

他にも、メタ性を活かしたものとして、「記憶を覗き見」である「アマルコルド」「エンドレスポエトリー」「リアリティのダンス」「田園に死す」などがあるが、前の記事に記述したので割愛。次は、「メタ性とリアルの編集・演出」の記事でも書こうかな。




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