後輩と会って

ここ二週間、私はコロナウィルスで隔離されている。体調も軽く崩し、倦怠感と家から出れない状況は辛いが、これもまた今しか出来ない経験なのかもしれない。そんな中、昔通っていた塾の先生から連絡があった。ズームにて高校生と最近のワクワクついて会話するセミナーに参加して欲しいとのことだった。コロナを理由に断ろうと思ったが、先生はコロナでエクモまで入って瀕死を経験をした人だったので、私の体調程度では断るのは恥ずかしい。なので、セミナーを受けることにした。セミナーでは色々な高校生がワクワクについて話していたが、体の倦怠感で薄い意識下に言葉が軽く滑り込んでくる程度にしか聞くことはできなかった。朦朧とする中、1人の高1生が学校の愚痴を言ってるのが耳に入った。傾聴して見ると、なんと私の母校である國學院高校の愚痴を言っている。熱で溶けかけていた頭も覚めた。私の原点、彼の言う愚痴と同じものだったからだ。

形骸化した校則、哲学も熱意ない教師、それに疑問を持たない生徒、その中で1人反抗し孤立する自分。彼はそんなことを言っていた。ああ、懐かしいなと、純粋であった頃の私の感情を思い出す。当時は、高校が主張する文化だとか伝統に反抗し尽くした私だったが、その反抗が目の前で引き継がれている様を見ると、その反抗にむしろ伝統を感じてしまった。なんて嬉しいことなんだろうか。

彼を観察していると一つのことに気づいた。純粋で正直で賢く、それ故に捻くれ者として扱われる矛盾を孕んだ構造をだ。彼は中学生の頃、国語の授業で将来の夢を作文で書かされ、何も書くことが出来ず三日間居残りをさせられた経験を語っていた。己に嘘をつくことが出来ず。適当なことを書いて流すことが出来ず、正直な思いで手を止めたんだろう。それを教師は咎め、嘘を書かすことを強制させて、そして褒める。そんな体験から教師に不信感が募ったと言っていた。私も、彼と同じ様に純粋であり、捻くれ者だったのかもしれない。

私は高校時代に感じた社会憎悪によって、思考力を養った人間だ。初めて自立して考えを深めた経験は、悪徳な高校に対する不満や悩みによるものだったからだ。なので、高校には恨みもあるし恩もある。しかし、恩があると解釈できたのは、卒業して数年経ってからである。在校生である彼は純粋な恨み辛みの中で、もがき苦しんでいる最中なのだろう。自身のトラウマを自由に取り扱う様になるには、そのトラウマから自らの感情を離し、俯瞰した位置に立った時にしか出来ない。彼がそれを出来ようが出来まいがどちらにせよ、彼の行く末を定期的に観察できるのは私にとって幸運である。なぜなら、私のあり得た一つの可能性を彼は提示してくれる存在であるからだ。

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