『番外編 え!?タヌキとライオンの対決?』(2021年的注:『平成狸合戦ぽんぽこ』&『ライオンキング』評)

※同人誌『Vanda』16号(1994年12月発行)に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 この夏の映画界は「狸とライオンの決戦」だったそうだ。かたやジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』、かたやディズニーの『ライオンキング』。さて、その結果は如何?
 『ライオンキング』については、表面的に見れば、絵はきれい、音楽は親しみやすく感動的、物語も分かりやすく、ファミリー映画とすればいい線をいっていると思われるけれど、根本的なところで問題を抱えているような気がしてならない。というか、とてもディズニールネッサンスの一翼を担うような優れた作品には思えないのだ。
 だいたい、アメリカ人というのは、どうしてこうも脳天気なのだろう。世評高い『美女と野獣』(私にはとてもアカデミー賞にノミネートされるほど良く出来た作品だとは思えないが)にしても、例えば、あの野獣が元の王子に戻るくだり。全身から光輝は放つわ花火は上がるわ、思わずオマエは合体ロボットか!とつっこみを入れてしまった位で、いやはや呆れるばかりの脳天気さ。事の真相も分からないまま、城の化物どもに散々な目に合わされるわ、首謀者のガストンは死ぬわで、逃げ帰った村人達のことなんか歯牙にもかけてやしない。
 そしてこの『ライオンキング』。テーマはサークル・オブ・ライフというならば、今ほど地球規模でのサークル・オブ・ライフが叫ばれている時代はないのだから、少しはその現状との接点があってもと思うが、それでは別の映画になってしまうし、ライオン達に姿を借りた普遍的な物語ということで目をつぶろう。だいたい誰もディズニープロにそんなものは求めてやしない。アフリカの動物王国で、草食獣が総出で肉食獣の王子の誕生を祝すという出だしも、お伽話として許そう。
 父王ムファサは、いいキャラ。偉大なファミリーの長というアメリカ人の一つの理想像であり、父権回復の願いも込められている。彼の語るサークル・オブ・ライフの思想も説得力を持っている。
 しかし、物語の主役である、息子シンバがてんで情けない。悪玉の叔父スカーの奸計で偉大な父を失い、王国を追われた彼は何をしたか。なーんにもしてやしないのだ。自責の念を記憶の底に押し沈め、ミーアキャットとイボイノシシの仲間になった彼は、サークル・オブ・ライフを実践することもなく、連日連夜、虫を主食に(笑っちゃったよ、我らがレオもTVではバッタを食べておりましたな)、ハクナ・マタタ(くよくよするな)を信条に、食っちゃ遊びのお気楽三昧。それでも月日は流れ、今やシンバは立派な雄ライオンに、なんてなれるわきゃないだろ!毎日ムシ食ってごろごろしてるヤツが! ハクナ・マタタてのは素敵な哲学だと思うのだが、それがシンバにとって最初こそ救いだったとはいえ、現実逃避にしかなっていないというのはちょっとね。
 そこへ現れたのが幼なじみの雌ライオン、ナラ。これがまた情けない。スカーの悪政で今や王国は風前の灯火。なんとかしてほしいとシンバに頼み込む。冗談じゃない。「甘ったれるな、滅ぼしたいなら自分でやれ、生きてるかどうかも知れんヤツに頼るんじゃない」と飛影だって怒るぞ。愛する男のためならば嫌な嫌な嫌な奴とのキスだってやってのけちゃうジャスミン姫の心意気はどこへ消えた。さんざんライオンの生態無視しておいて、肝心なところは雌雄の別なんて。
 ま、とにかく、幻の父に励まされ(ここ、ちょっとじんと来ました)自らの使命に目覚めたシンバは、激闘の末、遂にスカーを打ち倒す。しかも、悪が倒され、シンバが王座についた途端、荒れ果てていた王国は水と緑が溢れる楽園に甦る。映画的なお約束として差し引いて見ても、なお、なんという底抜けに脳天気でご都合主義的な展開だろう。その中身はどうであれ、正統な地位の者がリーダーシップを取りさえすれば全ては保証付きで上手く行くとでも言っているような、傲慢なまでの楽天さは、ついこの間の国際危機でまたいみじくも証明された、我こそが世界の盟主、地球正義の執行人というアメリカ人の体質を如実に反映していると言えはしないだろうか。
 これが本当に何年もの月日をかけて数人がかりで練り上げたシナリオなのだろうか。同じ題材で日本に作らせてみなさい。もっと何倍も感動的で、しかも納得のいくものを作り上げてみせる。CGを使ったヌーの暴走シーンだって、スタジオジブリにでもやらせてみなさい。全編手描きでもっと生き生きとやってのけてみせましょう。『ジャングル大帝』は事の真偽はともかく、インスパイア云々の表示をされなくてむしろ幸いとさえ言えるだろう。ついでに『ジャングル大帝』問題に関連して言うなら、皆、手塚治虫の漫画と虫プロのTVアニメのそれとを混同して喋っている。今も昔も、原作付きのアニメなんてその位の認識しかないのだ。

 さて、ジブリに上手くつながったところで『平成狸合戦ぽんぽこ』に話をスライドさせよう。
 『ライオンキング』とはうって変わって『ぽんぽこ』は、1994年の今現在の地球におけるサークル・オブ・ライフの実情を描き出していると言えよう。その点をまず認めつつ、しかし、手放しで褒める気にはなれないものもまた含んでいる。
 「この夏、狸が化けまくる」というコピーと、陽気なCMそのままにオモシロイ映画だと思い込んで映画館に足を運んだ人も中にはいようが、どっこい、何せ『太陽の王子 ホルスの大冒険』の高畑勲である、あのノスタルジックな『おもひでぽろぽろ』の原作を日本の農業問題にすり替えてしまった高畑勲である。一筋縄で行く筈がない。「狸が化けまくる」というコピーに嘘偽りはないものの、しかし仕上がったのは、人間の手前勝手な開発に住み家を奪われてゆく多摩の狸たちの、三里塚もかくやという、集団闘争とその後の物語だった。
 そして私は見ている間中、これでいいのか、悔い改めよ、と責め立てられているようで、甚だ居心地が悪かった。笑える筈の場面は多々仕掛けられている。事実笑って楽しめた場面もあった。しかし、その他多くの場面の裏には必ず苦みが張り付いていて、とても手放しで笑ってはいられない。何しろ、これは狸も、そして反撃を受けた人間も本当に死ぬ映画なのだから。
 もっとも、高畑さんの意図は、この現状に対する苦い思いを観客と共有したい(『たぬき通信』より)とのことで、そういう意味では監督の意図は見事に達成されてはいるのだが。
 加えて、目玉である筈の妖怪大作戦の百鬼夜行も、描きも描いたりと感嘆はするけれど、何か、資料と首っぴきで描いてます的な、上に糞がつく程の生真面目さの方が前面に出てしまっているようで、どうも楽しめない。作り手がまず乗って描いていない、これでは、とても漫画映画と呼ぶ気にはなれない。漫画映画てのは、例えば、秀れた喜劇人が涼しい顔してとんでもないことをやってのけるみたいな芸達者なものであって欲しい訳で。
 ましてや、戦い敗れた、化ける力のない狸が、念仏踊りの新興宗教に走ったあげく、宝船に乗って死出の旅に出るくだり。力なき民衆がたどるある種の歴史的事実かも知れないが、少なくとも漫画映画と銘打っているもので、小さな子供も見る映画で、こんなものを見せられるのは真っ平御免だ。平素歯切れのいい志ん朝師匠の語りも、このシーンでは、いやにくどさが耳につく。漫画映画というのはもっと生命力に溢れたものであって欲しいのだ。
 なんて言ったって、元々「総天然色漫画映画」なんてのは営業サイドでつけたもので、当の高畑さんは漫画映画を作ったなんて思ってもいないんだろうけど。
 それでも、出版されている『イメージボード集』を見ると、狸が化けまくる様が、実に生き生きと大らかに繰り広げられている。この生命力を殺いだのは何か。それは、開発問題を「自明の理」とし、一種の作品の背景としてとらえる意向を持ちながらも、例えば工事に伴う残土の問題をあえて作品中に提示して見せずにはいられないような告発の姿勢、それに伴う作者の怒りが生々しくあるから、ではないだろうか。試写の後で宮崎駿が言った「エンターテイメントの枠を越えましたね」という言葉は的を射ている。問題はその越え方ではあるのだけれど。ついでながら、宮崎さん本人は、自分は企画ではなく単なる言い出しっぺだと言っているが、その気持ちはよく分かるというものだ。
 告発が時として行き過ぎるのも困りもので、例えば、穏健派の鶴亀和尚と、おろく婆がTVカメラの前で、わしらの住み家を奪わんでくれと必死に訴える姿には胸を打たれはするものの、旅から帰って浦島状態の文太狸が身を投げ出して叫ぶ「山を返せ」の慟哭には「お説ごもっとも。でもね…」と引いてしまう気持ちを抑えることは出来なかった。そんなことを言ったら森林資源、石油資源の大量消費の上に成り立っているアニメーションはどうなんだ、という気さえ湧いて来るのだ。
 それでも、夏休み向けのオモシロイ映画を見に来たファミリー層など眼中にない語り口(だから映画後半、置き去りにされた子供らで場内のかまびすしさといったらない)と、高畑の怒りの激烈さにも関わらず、これがアジテーター映画にならずに、ぎりぎり娯楽作として成り立っているのは、狸と共に人の所業を糾弾している立場と、人として糾弾されている立場と、双方に身を置いて折り合いをつけているからだろう。
 『ぽんぽこ』は、男鹿和雄による日本の四季の移ろいを見事に描き出した美術背景も含め、映像による日本の伝承文化の定着ということを意図しているとも思える。数々のわらべ歌や民間伝承、伝統絵画の再現、落語から宮澤賢治、更に、声の出演の方も、落語界の長老陣から日本の話芸の総ざらえとして錚々たる観があるが、反面、要素が多すぎて、散漫になった印象も否めない。空想的ドキュメンタリーとしての、いわば語り物であるという意図は分かるものの、もっと刈り込んで見せて欲しかった気もする。宮澤賢治(一目瞭然)や黒澤明(土砂降りの中の戦いは『七人の侍』、狐の嫁入りは『夢』)へのオマージュも、落語や伝承をベースにしたエピソードの数々も、所詮は<趣味>の世界である。妖怪絵巻をバックに屋台の中年が延々と神経のせい云々と管を巻くシーンも、教養の程は分かるが、いかにも長い。禿狸の誕生祝いも那須の与一も本当に必要なシーンかどうか。
 さて、こうして一応のことを頭に入れて二度目を見てみると、今までとは違う側面が見えて来た。それは、自然破壊告発映画の様を呈しながら、実はこれは高畑勲の(そしてある年代の日本人の)自叙伝を語る、一種の私映画ではないかというものだ。様々な日本古来の文化を散りばめ、太平洋戦争の空襲の恐怖、安保やベトナム、学生運動、労働争議、自然保護団体に機動隊、そういった<我が闘争>を織り混ぜながら総括される高畑勲と日本人の軌跡。そうしたものが『ぼんぽこ』には密かに込められているような気がする。宮崎駿が同じく<我が闘争>を織り込みながらの『紅の豚』が十二分に万人向けのエンターテイメントとして仕上がっているのに比べると、『ぽんぽこ』は、両者の作家性の違いをまざまざと示して生々しい仕上がりになってはいるが。
 そしてラスト。精魂込めた妖怪大作戦で何の効果も上げられなかった狸たちが、最後の力で多摩を昔の風景に戻して人間達に反省を促すという形を取らずに、ただの気晴らしとしてやったことが却って道を開くという結末の付け方は興味深い。『ホルス』の肩肘張った団結も、人間の善意への信頼の時代も遠く過ぎ去り、今や肩の力を抜いた気晴らしの心境に至った高畑勲からは、まだまだ目を離せないという気にさせてくれる。だからこそ、最後のポン太の観客へ向けての説教臭いメッセージは蛇足そのもの。人間に化けてドリンク浸けになって暮らす狸や、都会の片隅やゴルフ場の疑似自然の中で「どっこい生きてる」狸たちの姿に、劇場を揺るがす上々颱風の元気をくれる歌声で、すっきりと終われたら、と残念なのである。そうしたら素直に、ここは一つ、狸と一緒に頑張ってみようかという気にもなるのだから。
 夏の映画界を騒がせた「狸とライオンの決戦」は、どうやら観客動員数からいったら『狸』に凱歌が上がったようだ。『ライオン』が当初の予想より低い数字に終わったのは、盗作疑惑騒動に足を掬われたのに加え、ファミリー映画の割に原語版のみの公開方法が敬遠されたらしい。
 しかし、長い目で見たら、『平成』などといういつ時代遅れにならんとも限らないタイトルの時代密着型の『狸』よりも、普遍的な『ライオン』の方に軍配が上がるのかも知れないけれど。

初出:『Vanda』16号(1994年12月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※『Vanda』の原稿には珍しい時評的論考。こういうテーマは通常は別の連載を持っていた『漫画の手帖』の方に書くのだが、掲載誌の発行時期の問題なのか。
※文中の「飛影」は『幽☆遊☆白書』のキャラクターで「」内は彼の台詞から。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?