再録:「地域振興券で映画を見よう」

※『VANDA』25号(1999年6月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 支給前は世紀の愚策と思っていた地域振興券だけれど、これ1枚で映画が1本見られるとあれば話は別。館によっては100円の商店街割引券までくれて実質900円で見られる。興収に響くのではないかという気もするが、まずは早速恩恵にあずかって来ました。

『バグズ・ライフ』
 ピクサー社のフルCG第二弾は、心温まる小さな世界の物語。横暴なバッタの群に食料を搾取され続けるアリたちが用心棒を雇うことを決め…という導入部は正に『七人の侍』。でもアリの若者フリックが連れて来たのはサーカス団の虫たちというところから騒動が始まる。
 開巻まず目を奪われるのは、実写と見紛うばかりの植物群。その中を縦横無尽に入り込んで行くカメラアイ。木の葉に透ける光の表現等に新技術を開発しての3DCGによる描写は圧巻で、セルアニメでは殆ど不可能に近い画面。ワイドスクリーンを一杯に使っての虫たちの動きも素晴らしい。
 でも大事なのはそうした技術だけではない。肝心なのはそれを使う人間の心なのだ。この虫たちの小さな世界全体にあふれている優しさや温かさは格別だ。それぞれの虫たちの性格づけや表情、仕草の豊かさ。作戦が失敗してバッタたちにボロボロに痛めつけられながら、自分たちが本当は何者なのかに気づいて立ち上がるフリックの誇り高い姿は感動的だし、敵役のバッタ群の中に一匹おどけ者を入れて単なる悪役一辺倒にしない配慮もいい。そして虫の天敵である鳥を重要なモチーフと伏線にして進む紆余曲折のストーリー。偽物の鳥を作る過程も実に楽しい。鳥型を切り抜いた木の葉を日に透かし拡大された影を型紙にするアイディアには感嘆。センスのあるスタッフというのはいいものだ。クライマックスの、虫にとっての豪雨の中で繰り広げられる大カメラ移動のアクションは本家『七人の侍』へのオマージュに満ちているし、ピクサー社のスタッフが見て育ったディズニークラシックへの愛と敬意もそこここに見受けられて嬉しい。助っ人を探しに出掛けたフリックの前を様々な虫や、画面に入り切らないほど長い足のクモがスクリーンを横切って行くのは『スターウォーズ』第一作を思わせる。見事バッタを撃退し、サーカスと共に去って行くイモ虫が言う「ここからだとみんなアリに見えるよ」の一言は、偉大なるフライシャーの傑作『バッタ君町に行く』のラストの名セリフへのオマージュに違いなかろう。
 しかし何と言っても楽しいのは最後のスタッフロールに付けられた『NG集』。もちろん本物のそれではなく、全体を映画の撮影に見立てて<新作>しているのだ。このいかにもアメリカらしい酒落っ気。憎々しいバッタのボスまで実はいい奴なんじゃないかと思えて来る。監督のラセターは陽気で茶目っ気たっぷりな好人物。やはり映画を支えるのは技術ではなく、しっかりとしたストーリーと、何よりキャラクターへの愛なのだということが伝わってくる。

『 MARCO 母をたずねて三千里』
 予告編を見て、新作なのにまるでTV版そのものの絵の上手さに驚いたものだけれど、それもその筈、当時の原画のトップクラスだったベテラン才田俊次(OHプロ)がキャラクターデザイン、作画監督、原画を手掛けているのだ。TV版の小田部羊一のキャラクターがほぼそのまま再現され、それが記憶に懐かしく訴えかけて来る。設定的に、ペッピーノさんがいささか立派な人物になっているとか、草陰に咲く菫の様に儚げだったフィオリーナがタンポポの様なしっかりした娘になっている等の差もそう気にはならない。
 ただ、これはもうどうしようもないことなのだけれど、TV版という相手が偉大すぎるのだ。『クオレ』の中の一短編にすぎない原作を、当時の社会背景を熟慮した上で練り上げ、創造し、全52話、全20数時間の一大長編に仕立てた高畑勲、深沢一夫以下のオリジナルスタッフの仕事はTV史上の金字塔だ。それをたかだか90分の映画にという方が無理なのだ。
 監督の楠葉宏三は、時にCGを駆使しながらTV版で印象的だったエピソードとキャラクターを丁寧に綴り合わせている。その仕事ぶりは誠実だ。オリジナルスタッフの権利がどうなっているのかも気掛かりではあるが、ここは難題に挑んだ映画版スタッフの健闘を称えるべきだろう。ただ惜しむらくは世界の創造に多大な貢献を果たした美術の椋尾篁が亡くなっている為、背景の深さにおいては及ばないと言わざるを得ない。それでも劇場版ならではの大スクリーン一杯に広がる「山もなく谷もなく何も見えはしない」風景の中に立つマルコの小ささが実感出来るのは確かである。

劇場版『ドラえもん』&併映作
 いつもはTV放映まで待つ『ドラえもん』。劇場版は、子供が飽きないことを意識した作りのせいか大人には少々だれる。日常から非日常へ、そして冒険を経て日常への帰還という、どこでもドアを通り抜けたような一場の夢の如き構造。それは映画の舞台にふさわしいとは言えるのだけれど今一つの工夫も欲しい。
 さて、お目当ては併映。定番の『ドラえもんズ』の新作『おかしなお菓子なオカシナナ?』はいきなりのロボット戦がいかにも『ガオガイガー』の米谷良知らしいゴージャスかつハートフルな作り。一方『のび太の結婚前夜』は、しみじみとした佳品。明日嫁ぐ娘しずかに寄せるパパの思い。「君が生まれて来てくれたことが最高のプレゼントだよ」というセリフが泣かせる。パイプをくわえたもの静かな様子は『エスパー魔美』の父親像にも通じ、つまりは原作者の故藤子・Fさん自身の投影と思うと胸が詰まる。のび太と青年のび太を一人で演じ分けた小原乃梨子さんの名演にも拍手。

『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』
 初見ではストーリー、人物配置、そして画面そのものの情報量が多すぎて今一つ判断がつかず再見。大分整理はついたものの、不完全燃焼感は変わらず。まるで『春エヴァ』みたいな唐突な終わり方(あれで、ガメラの上を量産ギャオスが舞っていたりしたらモロだね)もそうだけれど、何か、人物が大事にされていない気がする。端的なところを上げるなら綾奈の扱い。いかにも容体悪そうに肩で息をする綾奈を、大の大人が何人も揃っていながら何故、台風の雨風を浴びる京都駅に立たせておくのだ。せめて上着を着せかける、ベンチに座らせる位の配慮はあって然るべきだろう。なのにそれをしないのは何故か。答は簡単だ。監督的には雨に打たれる綾奈の方が絵になるから。特撮的にはここで彼らに足止めしていて貰わないと京都駅での怪獣対決が撮れないから。誰も少女のことなんか本気で心配してやしない。こういう居心地の悪さはかの『老人Z』以来だ。
 『ガメラ3』のキーワードは、ガメラによって両親を失った綾奈の「私はガメラを許さない」。少女の憎悪が邪神を生む設定はぞくぞくする程刺激的で魅惑的だ。イリスとの初融合シーンも幻想的かつエロティックに美しい。主体的にイリスに関わる綾奈に、少女の心の闇が魔性を生む世紀末の象徴を見ることも出来る。が、被害者はそのまま加害者になる。次に「許さない」と言われるのは綾奈なのだ。彼女の心を救う為には相手役の少年龍成にもっと頑張って貰わなくてはならない。イリスを封じる剣は「何とかしてくれ」ではなく自らの意志で「何とかする」為に投げられるべきだ。大階段ありエスカレーターあり空中通路ありの異様な空間を持った京都駅はその為にもっと縦横に使われて欲しい。怪獣対決の舞台としてだけでなく人間の為に趣向を凝らして使われていたらこの映画は別種の豊かさを持ち得たと思う。イリスの体内で己の罪を知って救いを求める綾奈の心に応えてガメラは戦う。それに対し人間側の描かれ方はいかにも弱い。せめて龍成の叫びが綾奈を呼び覚ます位のことはやってもいいのじゃないか。ガメラ最後の必殺技が『Gガンダム』のシャイニングフィンガーなのだしさ。総じて『ガメラ3』は人間が人間らしくない。大迫を除いては血の通った感じがしない。まるで全員が映画の為の巫女のよう。渋谷でのガメラの火球で人間がボンボン吹っ飛ばされる阿鼻叫喚の筈の場面も全然実感が無いから怖くないのだ。
 とはいえ今回も特撮は見事。特撮史に残るだろう美しくも幻想的なイリスの飛翔。空中でガメラの甲羅が逆立つ辺りは鳥肌もののカッコよさ。ただ、その完成度が映画の中では別の方向に作用している感も否めない。領海外へ飛走したガメラに対し「追いかけてってやっつけてもいいんじゃないですか。後はアメリ力さんにお任せってのもねえ」と言ってのける大衆の映像をさらりと紛れ込ませたり、自衛隊全面協力とはいえ余りにも好意的な描写、パトリオットミサイルの命中精度…某週刊誌の「ギャオスはテポドンだ」というトンデモ評もあながち的外れではないのでは、等と思えてしまうのだ。杞憂ならば幸いだが。
 しかし、ドラマがリアルを極め、特撮、CGが進化し、敵怪獣がハイパー化すればする程、ガメラは所詮二足歩行する巨大なカメに過ぎないと思えて来る。装甲は高いのに回避が弱いし、地上では鈍重で、地球の守護神にせよ超古代文明の生体兵器にせよ形態的に適してない気がする。もしかしたら、かつての大映ガメラの、我々東宝派にとってはダサイ象徴でしかなかった子供の声援と協力を受けて戦う正義の怪獣というスタンスは実は正しいものではなかったかと今更思う。『G1』で正統派怪獣映画を復活させてくれた平成ガメラは『3』で行き着く所、怪獣映画の終焉まで行ってしまった気がする。ガメラはもうこれでいいのかも知れない。

『ウルトラマンティガ&ダイナ&ガイア超時空の大決戦』
 さて、そうした『ガメラ』も一皮剥いてみればそこには古都の町に怪獣を降臨させたい、最新の京都駅で怪獣を対決させたいという(良い意味で)子供っぽい願望が核になっている訳で。それを易経だの何だのを総動員して理屈付けをしてみせた『ガメラ』よりも、実はこの『超時空の大決戦』で悪ガキが言う「こんな街、みんな壊れてしまえばいいんだ」というセリフの方が遥かに「怪獣映画の真実」なのだ。愚直なまでに人間を信じ、人間の未来を信じる『超時空…』は子供に見せる映画として正しいと思うし、その後味はまことに清々しい。舞台をウルトラシリーズがTV放送されている世界とすることで設定の違うティガ、ダイナ、ガイアの三大ウルトラマンの競演を可能にした発想の勝利。TVではいささか頼りない『ガイア』の主人公高山我夢(ガム)が少年たち相手に憧れのお兄さんとしてきちんとヒーローしている頼もしさ、謎めいた転校生の美少女の意外な正体と、少女に淡い思いを抱く少年がこの世界を救う為に下さねばならない悲痛な決断、そしてラストの救いの爽やかさ、これはもう『ダイナ』や『ガイア』で時折見せてくれるようなジュヴナイルの秀作だ。色々と考えさせられる映画も必要だと思うけれど娯楽の王道は見た後いい気持ちで映画館を後に出来る映画だと思う。そういう意味で小中和哉監督に最大級の賛辞を贈って本稿を終わろうと思う。

初出:『VANDA』25号(1999年6月発行)、発行所:MOON FLOWER VANDA編集部、編集発行人:佐野邦彦、近藤恵
※地域振興券とは1999年に地域経済活性化の為に全国市町村が発行し配布された商品券の一種。1枚1000円として使用出来た。さすがに時事ネタなのでタイトルに「再録」と付けた。
※この号をもって編集発行の近藤恵氏は編集部を円満退任、次の26号(2000年8月発行)は佐野邦彦氏の単独編集発行、発行所もVANDA編集部のみとなる。佐野氏はネットの『Web VANDA』に加え、スカパー!の『Radio VANDA』も開設、活動範囲を更に広げ、紙の『VANDA』は終焉を迎える。約10年に渡った私の連載も本稿をもって最後となった。音楽誌となって以降は異質な存在でもあった原稿を『VANDA』以前から積年の交流の元に掲載し続けてくれた佐野氏には感謝しかない。2017年に逝去された佐野氏(享年60)のご冥福を改めてお祈りしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?