『ウォーリー/ WALL・E』私見

 一作毎に進境著しいピクサー社の新作長編『ウォーリー/ WALL・E』。
 今回は遥か未来の地球を舞台に、壮大な廃墟を描き出してみせた。人間たちがゴミだらけの地球を捨て大型ロケットで宇宙に出てしまった無人の地球。後を任されたのはゴミ処理ロボットたち。その最後の1台であるウォーリーは連日せっせとゴミを集め、キューブに固めて処理し続けている。
 彼の相手は小さなゴキブリ型ロボット1匹のみ。このゴキブリ君は形状記憶素材で出来ているらしく、うっかりウォーリーのキャタピラに踏まれても次の瞬間ピョンと元に戻ってみせる。アニメ史上最高に可愛いゴキブリだろう。そしてこの、有機物ではないにも関わらず生きている存在(ウォーリー)と、小さな昆虫のコンビは、そのままディズニーの古典『ピノキオ』の、生ける木の人形ピノキオとコオロギのジミニー・クリケットを思わせる。ピクサー社の作品に再々見られる、かつての名作への敬意はここでも健在だ。
 さて、今回CGで描き出された壮大な廃墟。元々CGはこうした大風景を描くのに長けているとはいえ、その密度と構成物さえ特定出来そうな質感、そして汚れ具合のリアルさ、更に一面の粉塵に覆われて遠くへ行く程カメラの視界が利かなくなってくる大気感は実に見事と言う他ない。
 その中を動き回るウォーリーの、四角い体を構成している金属部品1つ1つの質感や、使い込まれて汚れくたびれた感じ、凹凸のある地面を行く三角キャタピラの複雑な動きの、これまた見事なこと。
 ウォーリーの小さな体に『スター・ウォーズ』をはじめ様々な先行作品の影響を見ることは容易い。しかしここで肝心なのはウォーリーが自律型ロボットとして自我と個性を持っていること。ウォーリー型ゴミ処理ロボットの全てがそのように作られたのではなく、おそらく長い歳月の間にウォーリーが自らを修理し続けるうち後天的に芽生えたものではないだろうか。『スター・ウォーズ』の前例があるとはいえ、アメリカ映画には珍しい類かも知れない。
 そのウォーリーの個性の1つは、黙々とゴミ処理の使命を果たしつつも、その合間に自分にとっての宝ものを探し出し、自分の小屋にコレクションしていること。彼独自の価値観は、例えばケース入りの宝石指輪を見つけても指輪は一瞥しただけでポイと捨て、ケースを面白そうに開け閉めした後、大事に自分の体内の収納スペースに収める描写に端的だ。ウォーリーの個性は彼の住むコンテナ小屋にも明らかだ。靴を脱ぐように汚れたキャタピラを両輪から外してバーに掛け、今日収集して来た宝ものを吟味しつつ、種類別にコレクションの回転棚に収納する。その楽しそうな様子は嬉々とした子供部屋の少年を思わせる。
 そしてウォーリーにはコレクションの趣味の他に娯楽の心がある。ミュージカル『ハロー・ドーリー!』の映画を観、音楽を聴くこと。実写をそのまま使った映画はビデオカセットで、ガシャンと上から押し込む旧式のビデオデッキを使っている。この辺にも制作者たちのこだわりの心の投影がみえる。
 ウォーリーの夢は、お気に入りの映画の一場面のように、誰かと手をつなぐこと。地球にただ1台の、固い武骨な金属の手しか持たないウォーリーの深い孤独が胸に染みる。
 驚嘆すべきは、ここまでのシーンに何のセリフもナレーションも無いこと。にも関わらず観客にはこれまで書いたようなウォーリーの個性と心が的確に伝わって来る。僅かなボディの動きや腕の仕草、双眼鏡のような眼の角度で、その心情が端的に伝わって来るのだ。ピクサー社といえば、今や社名ロゴの一部となって映画の開始前に姿を見せる愛らしいデスクライトの坊やルクソーJr.で一躍世界に名を馳せたものだけれど、あちらはシーンの限られた短編。今回、原案・脚本・監督を務めたアンドリュー・スタントンとスタッフたちは長編でそれをやってのけた。『ファインディング・ニモ』の監督をはじめ輝かしいキャリアを持つスタントンの、これはまた新たな一歩となった。

 さて、ある日、ウォーリーの前に突然ロケットが着陸、中から純白に輝く滑らかなボディを持った探査ロボット、イヴが現れた。ウォーリーは一目で恋に落ち、彼女と手をつなぐことを夢見る。そう、これは古典的なボーイ・ミーツ・ガール映画。そしてそこに地球と人類の未来が絡む。可愛らしいロボット音声で喋り、青く点灯する目の形が感情によって変化するものの、イヴの心はやはり、その仕草によって表現される。ウォーリーよりもシンプルな筒型の形状のボディ。その微妙な仕草の中に見える少女らしさにも感心するけれど、つややかなボディへの周囲の風景の映り込みの見事さ、ストーリーが進行するに連れ状況に応じてそのボディが汚れて行く様子なども細心だ。
 地球の大気と、ウォーリーたちが飛び出し旅をする宇宙空間の対照的な描写の秀逸さ。クリアに美しい宇宙空間の描写はSF心を刺激して止まない。
 イヴを追ってウォーリーが辿り着いた大宇宙船内の実質的操縦者である舵輪型ロボット、オートの存在や、コンピュータの声を演じるシガニー・ウィーバーのクールで硬質な声の魅力。ここぞという所で大音響で鳴り響く『ツァラトゥストラはかく語りき』(言わずと知れた『2001年宇宙の旅』のあのメロディ!)には爆笑。その前にやはり『2001年』で印象的に使われた『美しき青きドナウ』が流れるという音楽的目配せがあるのもナイス。こんな風にSFやチャプリンや数々の映画的記憶が散りばめられているのも『ウォーリー』の魅力だ。
 3DCGで描かれた映画の中で、過去に録画された人物だけが実写で登場するのも、その間の遥かな時間の隔たりを実感させて効果的。ただし、まるでスタジオ・ゼロの『プラス50000年』の登場人物のように、全てを自動でやってくれるロボット椅子に委ねて暮らすうちに手足が短いメタボ体形に変化してしまった未来人たちは、つるりとし過ぎて質感が感じられず精彩を欠くのが惜しい。ウォーリーの移動跡に残る汚れに翻弄されまくる宇宙船内掃除ロボットのモー(M-O)は文句無しに愛らしく特徴的なのだが、他の、まるで『ベティ・ブープ』から抜け出して来たかのような故障ロボットの面々が無個性な外見の故か、その活躍の割にキャラ立ちが弱いような気がするのもまた惜しい。ついでに言えば「ウォーリーの夢は誰かと手をつなぐこと」と最初から言葉でバラしてしまう予告編の作り方も疑問だ。予備知識なく観ていて自然にそれが伝わった方が観客の発見の喜びは大きいのだから。
 イヴが地球で見つけ、ウォーリーと守り抜いた小さな植物の芽(この芽が『ミッキーの巨人退治』を思わせるのがまたいい)を頼りに宇宙船は地球に戻り、人類はおぼつかない足取りで全てを1からやり直すことにする。
 この物語に、全てを破壊してやり直すしかない所まで追い詰められたアメリカの深刻さを見て取ることも出来る。しかし、それに続くラストシーン、カメラがぐっと引くと探査の目の及ばなかった(あるいはウォーリーの旅の間に芽吹いたものか)砂丘の影に一面の緑が芽吹いている画面は希望とも、アメリカ的な楽観主義とも取れはするのだが。

 そしてこの映画、様々な要素を剥ぎ取ってしまうと、そこに残るのは先にも述べたボーイ・ミーツ・ガール映画。それも日本で言う「ツンデレアニメ」の骨子なのだ!
 ツンデレとは最近は随分と一般にも浸透して来た言葉だと思うけれど、要するに、最初ツンツンした態度だった女の子が恋した相手の前でだけデレッとなってしまう様のこと。自分だけの価値観で物をコレクションしたり、お気に入りビデオを繰り返し観るウォーリーは明らかにオタク系男子であるし、イヴは彼の前に文字通り空から舞い降りて来た天使。何かの気配を感じるや容赦なく銃をぶっ放す、気の強いイヴが、基盤が壊れて初期化されてしまいイヴのことを認識しなくなってしまったウォーリーに見せる悲嘆の場面と、続くハッピーエンドの、そのヴァリエーションを我々日本人アニメファンは今まで幾つ見て来たことか。これを期せずしてのシンクロニシティというか、洋の東西を問わずオタク心は同一地点を目指すというか、はたまたANIME(ジャパニメーションなどという言い方は現実にはされていない)の海外侵食というか、圧倒的な映像に目を見張りつつ、いささか複雑な心境に陥ってしまうのもまた事実なのだ。

※初出:『ビランジ』23号(2009年3月発行、発行者:竹内オサム)
※元の誌面は縦書きなのでnoteに合わせ数字などを半角に直しました。

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