『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』

※『ビランジ』41号(2018年3月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 アメリカのストップモーション(人形アニメーション)専門の制作会社、スタジオライカ(LAIKA)の最新作。ライカは2005年の発足以来、長編映画を中心に発表してきており、本作が4本目。
 アメリカの制作会社だが、いわゆるハリウッド的と称される陽性な物量主義の娯楽大作よりも、翳りや湿気や人間の負の側面を感じさせるダークな作風が特徴で、個人的にはイギリスの作家の作風に近いものを感じている。
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の舞台は日本。時代劇だ。監督のトラヴィス・ナイトは8歳の初来日以来訪日を重ねている親日家で、本作を「日本へのラブレター」とまで言っている。
 しかし、普通に考えても日本を舞台にした時代劇は敷居が高い。独特の時代背景や所作、髪型、袖や裾の捌きが難しい和服、足指の露出もある草履等の足元・・・人形アニメーションにとっては殊にハードルが高い。
 が、ライカは徹底したリサーチと世界最高峰と称される技術力で、それを現実のものとした。その出来栄えはアカデミー賞長編アニメーション賞と視覚効果賞へのダブルノミネートでも証明されている。
 にも関わらず『KUBO/クボ』の日本公開は遅れた。米本国では2016年8月公開だが、日本では1年以上遅い2017年11月にようやく公開。一時はこのままお蔵入りかDVDリリースになるのではないかとの噂すら流れた程だ。
 ライカの作品はその、3DCGと見紛う程に高度な技術に比して実はやや癖がある。ダークで、ホラータッチで、やり過ぎだったり汚かったりと趣味の悪い描写も多いのだ。それこそがスタジオの個性というものだが、国民性の違いもあって日本では一般大衆受けが難しい。
 最初の長編『コララインとボタンの魔女』(2009年)は童話風の設定の割に、子供にはトラウマになりそうな悪夢的な描写が多く、第二作目『パラノーマン ブライス・ホローの謎』(2012年)は当時の世界に渦巻いていた憎しみの連鎖を解く為の提言と言えるテーマに少年の成長物語を重ねた良作だが、登場するのはゾンビと怨霊と、一般受けは望めない態。第三作目の『The Boxtrolls』(2014年)に至っては前二作同様に日本でのプロモーション活動も熱心に行われ、ライカファンに公開を熱望されたにも関わらず遂に現在に至るまで、ごく一部の関係者試写が行われたのみで一般公開どころかイベント上映も無く、DVDすら国内発売されていない惨状。いわゆる「ライカ冬の時代」だ。(※注)
 だから『KUBO/クボ』も日本公開に関しては予断を許さぬ状況だったのだが、GAGA(ギャガ)の配給で公開が決定。当初の上映館は多くはなかったが、そこから火が点いた。「ライカ冬の時代」を知るファンにとっては正に千載一遇の好機。公開前からツイッター等のSNSを中心に自主的宣伝活動が繰り広げられ、公開後は日を追う毎にクチコミで評判が広がり、「#一生のお願いだからクボを観て」という必死さが泣けるハッシュタグも登場する程の話題を呼び、悲願のロングランが実現。館によっては一度小規模スクリーンに落ちながら再び大スクリーンに復帰する奇跡を見せた。配給元のGAGAもライカの全面協力を得て新宿バルト9に実際の制作に使用された人形複数を展示した上、GAGAの試写室を解放、人形を自由に撮影出来る撮影会を敢行。更にツイッター上でイラスト投稿を呼びかけ「#クボファンアート」としてまとめた上、ライカへ送り届けるという快挙を実践、それを見たライカから直々に返信が届くという、これ以上ない好循環が生まれ、SNSは大いに沸いた。
 『KUBO/クボ』の凱旋上映ばかりか『コラライン』『パラノーマン』を併せた特別上映も2018年に実現する等、「ライカ冬の時代」を知る者には夢のような状況すら生まれた。この状況は2016年からの映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)のブレークの軌跡と似て感慨深い。SNS時代の映画興行の一つの理想形とも言える。

 一度見たら忘れられず、必ず人に薦めたくなる映画。それが『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』だ。では、何がそんなにも人の心を惹き付けるのか、ストーリーを追いつつ見て行こう。(以下、ネタバレなので注意)。
 冒頭は大波荒れる海を小舟で渡る女(クボの母)。厳しい表情で行く手を見据え、先を阻む大波の壁を掻き鳴らす三味線の音で真っ二つに割る。ストップモーションの常識や先入観を覆す圧倒的スケールとビジュアル、息をもつかせぬ緊迫感。荒れる海原、女を襲う大波、とてもストップモーションによる造形とアニメートとは思われない導入部だが、そこはライカ。人形を支える棒や吊り糸等の仕掛けは後からデジタル処理で消してはいるが、CGで作られたシーンではない。パンフレットによれば、メタルの棒に取り付けた布、小さく千切った紙、壊れた硝子パネル等を利用して作り出した画面という。試行錯誤を重ねながら実物を1コマ1コマ撮影しているからこそ、それは迫真性を帯び、映し出される世界に真実味が生まれる。照明の光やその場の空気、アニメーターの魂も一緒に写し取られているのだ。
 画面を圧する大波に葛飾北斎の浮世絵『神奈川沖浪裏』の構図が重ね見え、スタッフの日本文化リスペクトの姿勢が早くも見て取れる。長い髪を乱した鬼気迫る女の容貌にもどことなく、世界的人形アニメーション作家である故・川本喜八郎の代表作の一つ『道成寺』の女の面影が見えるではないか。
 一連の場面に、主人公の少年クボによるナレーションが流れる。「まばたきすらしてはならぬ。見えるもの聞こえるものの全てに気を配れ・・・」と。それは追われる母への警句であると共に、この奇跡のストップモーションを見つめる者たちに向けても発せられているかのようだ。本当に、一瞬でも気を逸らせ1コマでも見落とすことが惜しいのだ。
 余談だが、クボという名はスタッフの友人である日本人クボ氏から取られたという。日本人少年の名としては個性的だが、その分一度で覚えてしまう。(ツイッター上では久保丸ないし窪丸の愛称ではないかとの考察も見られる)。
 時が流れ、母子は漂着した岬の洞で慎ましく暮らしていた。病める母の為に米を炊き、手ずから食べさせ、口の端に付いた飯粒を箸で器用に戻してやるクボ。作画でも難しい日常芝居、外国人なら操ることも難しい箸捌きを完璧にこなしてみせる人形の仕草に溜息が出る。この細やかさ。これだけで技量の高さが伝わる。
 クボの生業は母譲りの三味線で折り紙を自在に操る大道芸。折り紙が手を触れず折り上がる様は、実物を使うストップモーションならではの視覚的驚きを持った見せ場だ。三味線と折り紙という日本独自の文化への着目と、その取り入れ方の妙に唸る。
 クボが洞から大道芸をする村へ向かう際のトラックバックショットに見る、セットの想像を絶する巨大さに言葉を失う。ライカのプロモーション用映像でもよく人間の背丈よりも更に大きく精巧なセットを組んでいる様子が見られて圧倒されるのだが、この岬のセットは特にすごい。続く場面で、草原や小川の橋といった純日本的な優しい風景が広がるのもいい。
 クボが向かった先は賑やかに人々が行き交い暮らす村。顔馴染みの村人もいる。村から離れて暮らす母子だが、漂着以来の歳月を想像させる。
 江戸時代かと思われる村の盆踊りに大正以降の曲である『炭坑節』が流れたり、武士と町人が対等に暮らしている風なのも気になると言えば気になるが、ご愛敬の部類で作品の瑕疵になってはいない。
 クボの演し物は母から伝え聞いた亡き父の武勇伝。侍である父は月の帝が差し向ける化け物と戦いながら、月の軍勢に対抗し得る三つの武具を探す旅をしていた。大蜘蛛、鮫、火を吐くニワトリ。折り紙の化け物と折り紙侍のハンゾウの戦いは勇壮な中にも軽快でギャグも多く、無類の楽しさ。OPのナレーション「まばたきすらしてはならぬ」が、ここでクボの口上として繰り返されるのだが、本当にまばたきすら惜しい。取り囲む村人たちも大勢の人形それぞれの性格が伝わる動きをしていて感心する。映画冒頭の嵐の海のスペクタクル、洞での暮らしの静、折り紙芸の躍動と、緩急あるシーン運びも巧みだ。
 夜の洞で、舞うようにクボに昔語りを聞かせる母。平安風の長い髪と高貴な身分を示す十二単が美しい。クボの黒髪も母の長い髪も和風な質感が感じられ、強く日本を意識した造形であることが伝わる。クボの脚はライカ特有の細さで、この中に関節を仕込み、人形の重さを支えていることを考えると驚異的だ。赤ん坊の時に祖父である月の帝に左目を奪われたクボは黒い眼帯をし前髪を垂らしている。伊達政宗や柳生十兵衛のイメージというが、片目を隠したビジュアルが、白土三平の『サスケ』や『カムイ外伝』も想起させる。
 逃避行で頭に傷を負った母は今では記憶すら定かではない。そんな母の混乱を見るクボの、何とも言えぬ悲しそうな顔。母子の情愛に、現在の社会が直面している介護の問題までも絡めた脚本の今日性を思う。
 そしてその表情。人形の顔は3Dプリンターによって作られ、目元と上下の顔パーツに分かれ、それぞれを組み合わせて作る表情は何万通りにも及ぶという。そして、それが実に的確。殊にセリフを喋っていないリアクション時の表情の絶妙さ。ほんの僅かな眉の角度、目の開き加減、頬と口元。言葉よりも雄弁にその心の内を語る。感心するのが歯の造作。真珠のようなという形容の通り、清らかに硬くしっとりと透けるが如き輝き。クボの少年らしい一途さや健やかさが伝わる。ほんの20センチ余りの人形の、口の中に並ぶ小さな歯。その造形の精緻さを思うとただ感嘆しかない。
 この、クボの表情の付け方は、実は日本のアニメ作画の参考に大いになるのではあるまいか。3DCGと違って、かっちりとした作り物のパーツの組み合わせで表わされる表情は、くっきりとした輪郭を持つ日本のアニメととても近しい気がする。そこから得るものは大きい筈だ。

 母はクボに日没後に外に出てはならぬと言い聞かせる。月の帝が狙っているからと。しかし、クボは死者の魂が還るというお盆の日、父恋しさにその言い付けを破ってしまう。日本人でも忘れがちなお盆や灯籠流しの風習を正しく理解し脚本に生かしていることに感銘を受ける。
 日没と共に現われたのは異様な黒ずくめの装束に身を固めた闇の姉妹。鴉の羽を思わせる漆黒のマント、能面のように感情を見せぬ白い面を付け、その顔を覆う大ぶりな笠。バルト9での人形展示で実物を見たが、モールドの精緻さに驚いた。
 クボの叔母であり暗殺者である闇の姉妹の出現シーンはライカ得意のホラータッチで、冷え冷えとダークな怖ろしさ。シャーリーズ・セロンの声の演技も雰囲気が濃い。しかし『KUBO/クボ』をライカのそれまでの作品とひと味違うものにしているのは、ダークなホラーにも抑制が効いていること。やり過ぎてはいないのだ。『KUBO/クボ』がここまで多くの人に支持されたのは、その塩梅の具合が功を奏したからと言えるだろう。抑制は品の良さにもつながる。
 人形の動きにしても、これまでの3DCGと見分けがつかない程の滑らかさとはやや違い、人形アニメ特有のどことなしのぎこちなさを意図的に残しているように見える。人形らしさがあるのだ。それは見る者に如何にも手に取れそうな実物感を抱かせ、親近感を喚起する。この世界を信じられるものにしている。『KUBO/クボ』の制作に当たっては日本の「わびさび」の美意識、つまり儚さや不完全さをこそ美しいとする価値観を指針にしたというが、このアニメートにも表れているのではないか。
 戒めを破った途端に災厄に見舞われるのは洋の東西を問わず昔話やお伽噺の定石だが、クボの受けた報いは大きい。闇の姉妹が放つ黒煙はクボを追って膨れ上がり、村を呑みこむ。さながら大津波の如く。そう、『KUBO/クボ』の根底には東日本大震災を悼む心が敷かれている。それはテーマとも密接に関わり、ラストシーンに結実するのだが、それはまた後で述べよう。
 母の最後の力で救われたクボに残ったのは一筋の母の髪と三味線、父の形見の着物。目の前には肌身離さぬ猿のお守りが具現化した一匹のサルがいた。このサルの造形がまた見事。雪の中で温泉に浸かるニホンザルがイメージの原型だろうか。紙垂(しで)を思わせる四角く白い体毛に覆われたサルの、その毛の表現の恐るべき細密さ。この造形は人形を実際に目にしてもパンフレットの解説を読んでも複雑でどうなっているのか分からない。ただ恐ろしい根気が必要なことはしっかり伝わる。
 サルとクボは鯨の死骸の中で一夜を過ごす。貝殻を使い、器用に鯨汁を作るサル。鯨を大切にし、全てを頂戴する日本人へのリスペクトだろうか。厳しくも面倒見のいいサルを相手に子供らしい茶目っ気を見せるクボ。母を介護し気を張った日々の緊張が解かれた様子が愛しい。そして、この物語の大きな仕掛けを知った後で再見すると、このシーンに隠された意味が分かって泣けて来るのだ。
 クボとサルは、夜の間に不思議な力で折り上がっていた折り紙細工の侍ハンゾウが指し示す三つの武具を求めて旅立つ。このハンゾウのコメディリリーフぶりがいい。普段はきりりとした武者だが、画面の隅でちょこちょこと何かに巻き込まれたり、折り紙だけにぺしゃんこに潰れたり一枚の紙に戻ったり自由自在。肉親同士が争い合う凄惨な物語に潤いを与えてくれる。
 生まれて初めて自由な天地を知ったクボがサルを相手に悪戯っ子ぶりを発揮するのも可笑しい。その手首にはサルが結ってくれた母の髪が結ばれている。「思い出ってのは強いものだ」と言うサル。その言葉の真の意味。物語全体のテーマに繋がる重要な言葉だ。
 旅の途中、父の家来だったが呪いを受けて記憶と姿を奪われたという巨大なクワガタムシの侍クワガタが仲間に加わる。エンドロールでビートルズのカバー曲が流れるのだが、クワガタムシ(Beetle)はそのオマージュだろうか。二本足に大小四本の腕、巨大な角と如何にも硬そうな造りの体は武者の甲冑を思わせ、時代劇に相応しい。
 異なる三者が冒険の中で信頼関係を築き上げていくロードムービーものとしても本作は一流だ。喧嘩ばかりしていたサルとクワガタが互いをバディとして認めつつある様にクボが「なんだか不気味」とぼやくのも、大人と子供の関係、そして隠された意味を重ねて見るとこれまた堪らない。貴種流離譚に端を発し、家来を連れての宝探しと、三つの秘宝。物語の原型が込められた構造も重層的だ。
 一行は第一の武具である「折れずの刀」を求めて巨大骸骨と戦う。この骸骨、実物は4.9メートルもあるそうだ。元は歌川国芳の錦絵『相馬の古内裏』。エンドロールで骸骨の撮影風景が流れるのだが、ヘキサポッドという装置を使い、まるで工場だ。巨大さを生かした戦闘場面は立体的な構図と自由自在なカメラアングルで視覚も翻弄される。実は『KUBO/クボ』は3D立体視用の撮影も同時に行われていたそうで、如何にも見栄えのするシーンだ。クボに、アーサー王伝説も重ねられているだろう宝刀を抜かれた途端、髑髏の眼孔の光が消え、バラバラに崩れ落ちる辺り、ちょっと怪獣ものの最期も思わせてにやりとする。
 辿り着いた湖をクボの力で作った落ち葉の舟で出帆する一行。一面の夕焼けがしみじみと美しい。船上でクボに得意の弓を教えるクワガタ。サルの計らいで見事射止めた魚の刺身を囲む夕食に万感込み上げるクボ。彼が抱えていた寂しさ、家族への憧れが溢れて胸に迫る。そして物語の仕掛けを知っての再見はもう堪らない。号泣必至の名場面。再見が利くどころかリピート推奨の物語構造の厚みと巧妙さ。こんな映画ちょっとない。刺身の生々しい質感も特筆もの。(日本人としては醤油が欲しくなるのだけれど、多分塩味が利いているのだろう)。
 ハンゾウが示した第二の武具「負けずの鎧」を求めてクボとクワガタは湖中へ。クボは鎧を手に入れるが、湖に巣食い人の魂を覗くという目玉の怪物に捕えられ、サルが母の化身であると知らされる。クボの髪が水に揺蕩い額が顕わになるカットがちょっといい。髷を結い前髪を下した和風なスタイルと違って、ああ、確かにライカのキャラクターだと思える顔立ちで。クワガタに斬られた目玉の怪物が黒い体液を流しながらゆらりと沈んで行く、水中らしいゆっくりとした動きも上手い。この辺りの不気味だがグロテスクになり過ぎず、いい塩梅の描写も効果的だ。
 一方、嵐の湖上では、サルと闇の姉妹の片割れが死闘を繰り広げていた。荒れる湖面、揺れる船上。刀と鎖鎌を獲物に、不安定な足場で命の遣り取りをする実の姉妹。凄惨な運命。感情を持たぬ筈の月の住人である闇の姉妹が、月を捨てて地上の男との愛を育んだ姉への激しい感情を顕わに迫る。「生きることは戦うだけの価値がある」と応じるサル。人生の真実と、スピーディーで目まぐるしいカンフー映画さながらの殺陣。人形アニメの常識を覆す激しい描写。込められた力や痛みまでも伝わるような迫真性。どう計算したら、これだけの空間把握が可能になるのだろう。公開されているメイキング映像にこの場面もあるのだが、それを見ても信じ難い驚異の映像だ。
 サルは傷を負いつつも相手を倒す。割れた面が水中を沈んでいく描写の余韻。秘密を知ったクボに、サルは昔を語る。月の帝に命じられハンゾウを殺しに来た母は戦いの中でハンゾウの真心に触れ、それは月の民である母の凍った心を融かし、二人は結ばれクボが生まれたこと。
 月から遣わされた女性。ここに日本の代表的昔話である『竹取物語(かぐや姫)』を見る人は多いだろう。更に、月は冷たく凍った世界であり、永遠の命を持つ代わりに感情の無い人々が住む世界、反して地球は限られた時間の中で精一杯に生きる命の喜びに満ちた世界とする見方は、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』そのものとも取れるではないか。高畑版かぐや姫が地球で育ち、命の麗しさに触れながらも最終的には愛を捨て月に帰って行ったのに比べ、もう一人のかぐや姫とも言えるクボの母は月を捨て、愛を得て自ら命を生み出している。これは『かぐや姫の物語』への一種のアンサーとも言えるのではないか。スタジオジブリの作品は世界的に名高く、『かぐや姫の物語』は米アカデミー賞長編アニメーション賞にもノミネートされている。『KUBO/クボ』のスタッフが観ている可能性は高いだろう。
 真実を伝え、自分の物語の終焉を口にするサルにクワガタは言う。物語はクボの中で生き続けると。「物語」への言及。これが本作の大きなテーマであり、この後も繰り返される。クボが折り紙芸で父の物語を語っていた意味も大きい。
 一行が進む野原や林、竹林といった日本の原風景の如き風景が美しい。富士山と見える山もある。歩きながらクボをひょいと肩に担ぎ上げるクワガタ。嬉しそうに見上げるサル。幸福感がこちらの胸にも流れ込む。そして、再見すればそこに込められた二重の意味に涙する。
 頭上を行く鷺の群れ。鷺は死者の魂を望む場所へ連れて行くと教えるサル。人は死んでもただ消えるのでなく、生まれ変わって別の物語を紡いでゆく、物語の終わりは新たな物語の始まりだと。これこそが『KUBO/クボ』という物語の胆だろう。東洋的な輪廻転生思想。そこからライカの、いつまでも語り継がれる物語を生み出すこと、新たな物語を紡ぎ続けてゆくことへの覚悟が伝わる。
 父の最後の砦だった寺へ着いた一行を闇の姉妹の片割れが襲う。黒い煙でクボを捕え、クワガタこそがクボの父ハンゾウの変わり果てた姿であると明かす。互いにそれと知らず、三者は旅を共にしていたのだ。これを初めて観た時の衝撃。それまでの様々な場面が思い返され、それらが全く違った意味を持って立ち返って来て堪らない。再見の利く映画であるばかりか、むしろ再見がマスト。再見してこそ意味のある映画だ。
 月の世界で誰よりも強く完璧だった姉を奪った地球の男への憎悪と、月の世界の誰もが知らぬ愛を得た姉への嫉妬。激闘の中で闇の女の面が砕け、生身の口許が顕わになる。クボと同じ白く輝く歯。ライカのホラー趣味がここでもいい塩梅で発揮されて、見せ場が際立つ。
 致命傷を負ったサルを庇ったクワガタは闇の刃に倒れ、サルは最後の力で妹を倒す。迸る閃光。残ったのは、真っ二つになったお守りとクワガタの弓。しなびた折り紙細工のハンゾウが天を指し示す。クボは父の弓弦を母の髪と並ぶ手首に結び、最後の武具の在り処であるかつての村へと飛ぶ。クボの決意がひしひしと伝わる名場面。運命に翻弄され、常に誰かに守られていたクボが初めて己一人の力で立つ。少年の成長物語の王道だ。
 廃墟と化した村。最後の武具「割れずの兜」を手にしたクボを村人たちが恐る恐る迎える。三つの武具は土偶をモチーフに作られ、縄文時代の縄目模様が施されている凝りよう。平安調の母、江戸期のクボ、戦国時代のクワガタ、月の住人は中国由来の装束と、様々な意匠を取り入れたデザインワークに唸る。
 空を圧する満月。三つの武具を身に付けたクボの呼び声に応え、月の帝が姿を現わす。それはいつか夢に現われた盲いた老人だった。帝は、苦しみに満ちた地上を捨て天上界に来れば不死身になれると迫り、巨大な怪魚ムーン・ビーストと化して襲いかかる。圧倒的な力の差。この戦いのシーンは立体的に設計されており、3D立体視版がもしあったならさぞや迫力であろうと思わせる。
 戦う中でクボは悟る。闇の力に対抗し得るもの。武具を脱ぎ捨て、手首に結んだ母の髪、父の弓弦を二本の弦とし、自らの髪を加えて三味線に結ぶ。
 「お前の愛する者たちは死んだ。物語は終わったのだ」と迫る帝。「違う。胸深くに刻んだ物語は誰にも奪えない」クボの言葉に次々と亡くなった村人たちの姿が輝く光となって川面に立ち上がる。サルが言った「思い出の強さ」、クワガタが言った「物語を語り続けていくこと」、村人たちが守り続けてきたお盆の弔い。様々なものが渾然となり、涙なくしては見られない。
 そして、この物語は、東日本大震災をはじめ重なる災害に襲われ、大切な人を理不尽に喪った日本への、ライカによる心からの友愛のメッセージだろう。思い出は決して消えない。悲しみや苦しみから目を逸らさず全てを受け止めよう。亡くなった人は還って来ないが、思い出が消えない限り、人は生き続け、物語は受け継がれて行く。これ以上のエールがあろうか。その力強さに涙する。この映画を日本で公開出来て本当に良かったと心から思う。
 三味線一閃。迸る光の中に全ては終わる。月の帝がクボの目を奪おうとしたのは、人の心を見せぬ為。そうすることで誰よりも強い不死身の存在になれると。しかし地上に暮らし、父母の愛、村人たちの心を知るクボはそれを拒んだ。
 帝だった老人は全ての記憶を失っていた。村の人々が温かく取り囲む。老人の左目にはうっすらと光が宿って見える。それは孫であるクボが失った目でもあろうか。その目はこれから何を映していくだろうか。
 安らぎを取り戻した村。父の墓に語りかけるクボ。空には三日月。鷺の声が響き、灯籠流しの灯が灯り、川べりで人間の姿のままの父と母がクボを見守っている。美しく余韻ある幕切れ。父ハンゾウの姿に黒澤映画のスター三船敏郎を模しているのもいい。そう言えば、村人の中には高倉健そっくりの侍もいた。
 エンドロールは軽快な2Dアニメーション。旅の最中の様々な事柄が再び意味を持って甦り胸に迫る。前にも書いたが途中で巨大骸骨のメイキングが入るのも嬉しい。監督の「私の二本の弦である父と母に捧げる」との献辞も格別だ。主題歌はビートルズ時代のジョージ・ハリスンの名曲『WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS』のカバー。レジーナ・スペクターの情感あふれる歌声が胸に沁みる。この曲、日本語吹替え版では、日本を代表する三味線奏者吉田兄弟が担当しており、歌も表題の部分だけの繰り返しになっていて味わいが異なる。個人的には、物語の高揚をそのまま引き継ぐ日本版が好みだ。
 音楽はアカデミー賞受賞のキャリアもあるダリオ・マリアネッリ。クボが折り紙芸をする際の三味線の音色を生かした伴奏も耳に鮮やか。戦いの迫力も、母子の情愛も、自在に奏でる麗しく豊かな楽曲が心地いい。
 吹替え版と言えば、これが素晴らしい出来栄え。近頃は舞台挨拶等の集客と話題性を狙って俳優やタレントに吹替えをさせるケースが多いが、作品に良い効果を与えていることは残念ながら少ないと言わざるを得ない。中には聴くに堪えないケースすらある。
 ところが『KUBO/クボ』は違う。主役のクボを『クレヨンしんちゃん』の野原しんのすけで知られる声優・矢島晶子、クボの母とサルの二役を『攻殻機動隊』の草薙素子少佐で知られる田中敦子、月の帝を大ベテラン羽佐間道夫と、プロ中のプロ声優が演じ、クワガタはピエール瀧、闇の姉妹を川栄李奈、村の老婆カメヨを小林幸子が演じている。
 とにかく、これ程に見事な吹替え版は近来ちょっとない。プロの業を堪能。オリジナル版ではクボをアート・パーキンソン、サルをシャーリーズ・セロン、クワガタをマシュー・マコマヒー、闇の姉妹をルーニー・マーラ、月の帝をレイフ・ファインズと、それぞれ名優が演じている。私はオリジナル原語版も吹替え版もどちらも繰り返し観たが、個人的には吹替え版の方がより気に入っている。日本を舞台にした物語に日本語が合うのは当然と言えば当然ではあるが、吹替え版キャストの方が聴いていてしっくり来るのだ。クボはオリジナルの、少年ながらも二枚目な声よりも矢島晶子の演じる、ちょっと掠れた子供らしい幼さの残る声(言うまでもないが、しんのすけとは全く違う声で演じている)、サルはもう強い女性を演じさせたら右に出る者のない田中敦子で決まり、月の帝の羽佐間道夫も、大ベテランの貫録でこの物語に重厚さと説得力を与えている。大体、オリジナルのMoon Kingよりも「月の帝」の呼び名の方が相応しいではないか。クワガタの侍言葉も含め、日本語の良さを再発見する。難しい役どころの川栄李奈は荷が重い感はあるが頑張りが見事、ピエール瀧は元々ライカの大ファンだそうで、その思いが声にも表われ、実は私はオリジナル版よりもこちらのクワガタの軽妙さの方が好きだったりする。小林幸子もキャリアの長さは伊達でない器用な上手さ。プロの声優を中心に実力派が臨む吹替え版は、今後の日本公開映画の指針になって欲しいと切に願う。

 日本を舞台に、このように豊かで奥深い物語が編めるという事実に括目する。日本の中にはまだまだ宝が眠っているのだ。それを海外から気づかせてくれたことに身が引き締まる思いだ。この壮大な「日本へのラブレター」に最大の愛と感謝を持って応えたい。
 この『KUBO/クボ』を筆頭に近年、人形アニメーション復権の兆しが見える。私は人形アニメーションの大ファンなので、この傾向は素直に嬉しい。2月には昨春の東京アニメアワードで入賞した長編人形アニメーション『ぼくの名前はズッキーニ』の劇場公開も控える。私はこの東京アニメアワードの短編部門選考委員をやらせてもらったが、その選考過程でも優れた新作人形アニメーションを多く見た。国内でも『こま撮りえいが こまねこ』で知られるドワーフや、意欲作『ちえりとチェリー』の中村誠、独自の世界を持つ村田朋泰も新作を準備中だ。日本の人形アニメーションの開祖である持永只仁の回顧展も開かれる等、関心も広がっている。
 一時は3DCGの台頭に押され、このまま衰退するのではとさえ危惧された人形アニメーション復興の鍵は、撮影過程へのデジタル導入等の技術的進歩に加え、3DCGが行くところまで行って人々の目が慣れ、手作りのぬくもりのあるものを求めるようになったこと等、幾つかの要因が考えられる。そのようにジャンル毎の試行錯誤を重ね、アニメーション全体が繁栄していくことこそが望ましい。未来に期待が高まる。

※初出:『ビランジ』41号(2018年3月発行、発行者:竹内オサム)
※『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(日本公開2017年11月)
※注:『The Boxtrolls』は2018年に東京都写真美術館ホールで『ボックストロール』として『KUBO/クボ』『コラライン』等と共にイベント上映で公開された。現在ではDVD/Blu-rayも発売、配信もされている。
※元の『ビランジ』誌面は縦書きなので題名をはじめ英語や数字の多くは全角表記だったが、横書きのnoteに合わせ、それらを半角に改めた。
※前回発表の28号から間が空いているが、元々漫画研究の論考発表誌である掲載誌にアニメーションの文を寄稿し続けることに一度心が折れたため。

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