『未来少年コナン』

※同人誌『Vanda』11号(1993年9月発行)に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 『未来少年コナン』。1978年、NHK-TVで初放映。今回の原稿のために資料をあたってみて、すでに15年前の作品と知り、正直、驚いた。
 『未来少年コナン』。言わずと知れた、宮崎駿の初監督作品。宮崎駿の輝かしい原点。<処女作には作家の全てが表れる>の言葉通り、『コナン』には宮崎駿の全てが込められている。『コナン』は、初めて演出家として自分自身の<場>を得た宮崎駿が、みずみずしい感性と、長年蓄え続けたモチーフ、テーマ、技術の全てを注ぎ込み、精魂込めて<世界>を丸ごと作り上げた、記念碑的な作品だ。
 『コナン』は、当時の宮崎駿の溢れんばかりの意欲と夢を伝えて、今も熱い。
 ところで、『コナン』てどんなアニメ?と聞かれたら、何と答えよう。
 まずは、とにかく面白いアニメ。無茶苦茶笑えて、じんと来るほど素敵で、手に汗握るほどハラハラドキドキで、しかもしっかりした主張があって、全部見終わった後の爽快感は例えようもなく、そりゃあもう、最高のアニメ。そして、アニメーションでなければ描き出せない、本当にアニメらしいアニメ。
 『コナン』の魅力。それはまず、そのキャラクター。
 主人公コナン。顔じゅう口にして笑う笑顔がよく似合う、太陽のように明るくて、純粋で、活力いっぱい。身も心も健康な少年。とりわけ直感力に優れ、事の善し悪し、今どうするべきかなど、考えて判断するのでなしに、直感的にわかってしまう。
 ヒロイン・ラナ。何物にも屈しない心の強さ、そして優しさ、美しさ、鳥と心を通わせる神秘性など、宮崎駿の、女性への理想を一身に凝縮したかのような少女。
 圧倒的な浄化と解放のドラマを見せてくれたモンスリー。そしてダイス、ジムシイ。みんながみんな生命力に溢れ、各々の心のままに行動する、魅力的なキャラクターたち。
 彼らの心の動きを丹念に追い、紡ぎあげてゆくことで、広がり、進んで行くストーリーの妙。
 「Aパートが出来てみないと、Bパートがどうなるかわからないんです」とまで宮崎さんが言われた、先行きの全く見えない状況の作品作りだったにも関わらず、結果として『コナン』は、26本をフルに使い切った、見事な構成の物語になった。
 TVでも、完全な連続形式の作品はそう多くはないし、宮崎作品の中でも特異な存在である『コナン』だが、『コナン』の成功は、この、26本の連続物ということに多くを因っていると言えるだろう。
 物語の序盤に、地下に格納された姿を見せた巨大機ギガントが、終盤においてようやくその全貌を現し、最後のクライマックスを形作ったことを端的な一つの例とするように、あるいは、最初いかにも生気なく描かれていた、三角塔の地下の住民や、プラスチップ島の島民が、血肉を持った人間として再生されていったように、物語は小さな軌道修正を繰り返しながら、幾つもの設定や人物配置を有機的に整合させ、一つの<世界>を完成させてゆく。この、恐るべき力技。それもみな、26本という長さの中で初めて可能だったと言えるだろう。
 主人公の少年少女は、最終戦争の脅威から復活しつつある地球の象徴である<のこされ島>で出会う。
 が、出会いもつかの間、ラナは旧文明の復活を目論む一味にさらわれ、コナンはラナを救うべく旅立つ。
 典型的なボーイ・ミーツ・ガールの導入部ながら、ここで重要なのは、コナンの旅立ちが、そのまま人生への旅立ちになっていることだ。
 おじい以外の人間を知らずに育ったコナンは、ラナを追い求める旅に出、他の世界を知り、友を得、多くの人間と出会い、その欲望や希望を知り、その中で、自分のなすべきことを知ってゆく。
 そして『コナン』の魅力の多くはそれがボーイ・ミーツ・ガールに始まり、悪の手から捕らわれの姫君を救出する冒険物語が、その骨格になっていることだ。
 モンスリーの飛行艇から、幽閉された三角塔から、地下の迷宮から、海中に没したガンボートから、浮遊するフライングマシンから、あるいは目もくらむ塔の上から、ラナを救出するために、コナンは、全身全霊をあげて走り、跳び、駆け登る。そして、少女は、ひたすらに少年を信じ抜き、あるいは身を挺して少年を守り抜きさえする。
 これこそが、『長靴をはいた猫』で『ルパン三世 カリオストロの城』で『天空の城ラピュタ』で繰り返し描かれて来た黄金のパターン。漫画映画の大王道。
 そう、『コナン』はマンガ映画なのだ。それも、明るく楽しく、子供を勇気づける、正統なるマンガ映画としての方法論をもって作られているのだ。だからこそ、こんなにも面白いのだ。
 それは先にもあげたくアニメならではのアニメ>ということにも関連するのだけれど、例をあげれば、あまりにも有名な、あのシーン。救出したラナを腕に抱いて三角塔から大落下!のシーン。着地の瞬間ものすごい衝撃が足の裏から頭のてっぺん、髪の毛の先っぽまでビリビリッと伝わり抜ける、そのマンガチックな描写。動こうとすると足が床に張りついてしまっていて、それを手で引っぺがし、ガニマタでぴょんこぴょんこと走り出すこっけいさ。
 あるいは、随所で発揮される、コナンの足技。あるいは、ジムシイとの、いかにも子供らしい力と技の比べっこ。
 あげていたらキリがない。
 もしかしたら、世間に名高い『風の谷のナウシカ』あたりから宮崎作品を見始めたファンにはかえって違和感を覚えるのではないかと思うほど、『コナン』は<笑い>に満ちみちている。そしてその<笑い>は決してギャグのためのギャグではないし、『コナン』の、というより宮崎アニメの<笑い>は、登場人物たちがあくまでも一生懸命に物事に対処しているゆえの必然的なものなのだ。
 健康的な<笑い>は、人間の感情の最もポジティブな発露だ。そうして前向きにとらえられた世界の中で、コナンたちは、とにかくよく動く。めまぐるしいほどに動き続ける。その、動きの中から必然的に伝わって来る、人間の肉体的・精神的パワー、生命力、ひたむきさ、勇気、そして、限りない優しさや、思いやりといったもの。それら全てを引っくるめて、<人間とは素晴らしいものなのだ>という、宮崎さんの確信が伝わって来る。
 そして<笑い>の中で素直になった心に、自然に流れ込んで来るテーマ(主題というよりこの場合は主張)。その今日性。<いたずらなテクノロジーの追及よりも、自然と調和して生きる生活を><人間は、豊かな緑の中でこそ本当に人間らしく生きることが出来る><他の犠牲の上に成り立つ繁栄よりも、互いの協働による社会を>というそれは、例えば、フロンガスによるオゾン層の破壊など地球規模での環境問題に人々が目を向け始めた今日にこそ、より一層訴える力を増しているように思う。
 『コナン』をして<情動アニメーション>と、宮崎さんは言う。情に動かされる、という意味あいだ。
 その通り、『コナン』では登場人物は、心のまま、感情のおもむくままに、どんどん変わってゆく。
 コナンは、島育ちの極楽トンボから意識を持った少年に、ラナはコナンのおおらかさに心の抑圧を解放されて天性の明るい少女に、モンスリーは突っ張っていた官僚の鎧を脱ぎ捨てて普通の女に、ヘンクツな島の王様を決め込んでいたジムシイは仲間と暮らす楽しさを知り、ダイスは全き海の男となってモンスリーと結ばれ、バラクーダ号の乗組員も良き家庭人となり、無気力なプラスチップ島の島民や、廃人同様だったインダストリアの地下住民も人間として再生される。はみだし者のオーロですら更生している。
 このキャラクターたちの浄化と解放のドラマは、宮崎作品の最も重要な要素として、後の作品にも受け継がれ、展開されてゆく。
 それは、あのレプカすら例外ではなく、ラナを奪って逃走する途中で、蓋の外れたアタッシュケースからバラバラと日用品(悪党だって生活しているのだ!)を撒き散らすという描写、あるいは巨大機ギガントの中で右往左往する部下を「うろたえるな!」と叱咤しつつ、先頭に立って駆けずり回るあたりとか、「一生懸命一心不乱になっている人間は見ている方が許していく」という宮崎さんの持論通り、憎めない人間になってゆく。ギガント内の攻防があと一話でもあれば、どうなっていたか判らない、そう思えるほどだ。
 そして、そうしたキャラクターたちの変遷のあり様からは、<人間は変われるのだ。より良く、より高く、自由で、伸びやかに、解放された存在に変わり得るのだ>という、宮崎さんの主張が伝わって来る。
 全話を見終えた後の、何という充足感、何という心地良さ。キャラクター一人一人のドラマが訴えかけて来る『コナン』のテーマはまさしく<人間の賛歌>である。
 15年前、私は『コナン』の動画をやっていたけれど、毎回のコンテを見るのがこの位楽しみだった作品はなかった。毎週毎週『コナン』を見ていた時、私達はこの上なく幸福だった。
 あれから15年。当地では、つい先頃まで『コナン』を地方局で再放送していた。予告、エンディングはもちろん、プロローグ、オープニング、中間のカタカタのアイキャッチも何もない、番組名を示すのは局仕様のタイトル文字一枚、というサンタンたる状態ながら、ブラウン管の前の子供たちの反応はすごいものだった。コナンの超人的な足技に感嘆の声を上げ、ジムシイと船長の凸凹コンビぶりにドッと受け、それは感動的な光景だった。TV画面と同時に、彼らの反応をうかがいながら、私は二重に幸福だった。
 優れた才能を中心に、心血注いで作り上げた作品が、時を越え、少しも色褪せることなく、今も、次の世代の子供達を熱中させ、感動させている。この事実。作品冥利に尽きるとは『コナン』のような作品を言うのではないだろうか。

初出:『Vanda』11号(1993年9月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※文中の「15年前」どころか、2021年現在では43年前の作品『未来少年コナン』だが、2020年、コロナ禍の中で行われたNHKの再放送にSNSは話題沸騰、新たなファンも獲得したのは記憶に新しい。
※『Vanda』では毎号、アニメ特集として複数の執筆者が参加するが、この『未来少年コナン』は私単独の執筆だった。理由は不明だが、『Vanda』の中心を占める音楽の話題が増加していることも関係したのかもしれない。

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