追悼 森康二『森康二さんのご逝去に寄せて』

※同人誌『Vanda』8号に寄稿した文章の再録です。不世出の名アニメーター森康二氏のご逝去(1992年9月4日)を受けて編まれた追悼特集から。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 「祝!『わんぱく王子の大蛇退治』新LD化!!」―編集部から今後の予定を聞いていたので、来るべき東映動画特集のタイトルはこれでいこう、と思っていた。それが……。
 9月4日、森康二さんが亡くなられた。享年67歳。まだまだ早過ぎる死だった。新聞等に発表された直接の死因は肝不全だが、実際はガンだったという。そしてそれを周囲の人達は皆知っていたという。亡くなられる少し前、ご家族は揃って外国旅行に出掛けられ、宮崎駿さんは『紅の豚』制作中という多忙な時期にも拘わらず森さんの画集『もりやすじの世界』を自主出版された。全て、覚悟の上のことだった。
 そして、『紅の豚』(注:1992年7月公開)の、妙に生々しいポルコの白昼夢(飛行艇の昇天)のシーンに只事でないものを感じていた私は、森さんの訃報を聞いて後、そこに、知っていてどうすることも出来ない宮崎さんの心中や、否応なしに残される者の覚悟の程を重ね見ずにはいられなかった。
 アニメーションを意識して見出すようになってからずっと、森さんのお名前は尊敬の対象の筆頭だったのに、私の森さん個人にまつわる思い出は少ない。まだ森さんが東映動画にいらして、私も人伝てにバイトに通っていた頃、これが森さんの机だよと教えてもらったことがある。森さんが日本アニメに移られてからも、所用でスタジオに出向く時、森さんの、机に向かわれているお姿を垣間見たことがある。面と向かってお会いしたのはただ一度、目を悪くされてアニメーターとしての存続が難しいかと言われていた頃の森さんを皆で囲み、励ますという主旨の会の企画が出、その打診の為に荻窪の喫茶店でお会いしたことがある。その時の森さんは、こちらを胡乱な奴と思われていたのか、あの優しい小動物の絵をお描きになる方とは思えぬ程厳しい印象の方で、私はその前でひたすら萎縮していた記憶がある。
 厳しい、と書いたが、森さんの厳しさは、先ずご自分へと向かうものだった。内省、精進、研鑽。そんな言葉が当てはまるだろうか。先号で紹介された佐野邦彦さんの思い出話の中の、古い資料を何も手元に残していない訳を尋ねられた森さんが「もっとうまく描けると思ったから」と答えられたというのは、その端的な例だ。これも聞いた話だが、足の動きのアップを描く時など、動画用紙を継ぎ足して、まず全身を描いてみるという話など、あれ程の人にして尚のこの姿勢。なぜそんな面倒なことをするのかと問われて「ぼくはへただから」と答えられたというには、絶句するしかない。
 また、私はOHプロダクションのズイヨー=日本アニメ班に暫く在籍していたので、『山ねずみロッキーチャック』や『フランダースの犬』『草原の少女ローラ』『くまの子ジャッキー』等で動画をやらせていただいた。それらの中には森さんが直接原画修正をされたものが幾本かあり、その修正原画を手にするのは身が引き締まる思いだった。森さんが目を悪くされた頃のものは、一つのキャラクターに幾本もの太い途切れ途切れの線で修正が入っている。それを動画の判断で一本のつながった線に描き上げる訳だが、森さんのキャラクターは非常に微妙で、特に少年少女の頬のラインなど、途切れた修正線の内よりを選んだ時と外よりを選んだ時ではまるで表情が違ってしまう。それでも森さん直々の修正というので、おろそかなことは出来ないぞと非常に緊張したのを覚えている。森さんが分厚い天眼鏡を放さず仕事をしておられるという噂を聞いて心を痛めたのもこの頃のことだ。
 日本のマンガ界に手塚治虫という偉大な祖があったように、アニメ界には森さんがおられた。手塚治虫と森康二、お二人は、ものごころついた時からマンガやアニメを見て育って来た私達にとって、偉大な親とも呼ぶべき方々だった。手塚さんにはその壮大なドラマツルギーを通して、ものを見る精神の根幹を養われ、森さんには、美なるもの、優なるもの、そしてそれらが内包する真のつよさを知るといった、感性を育まれた。お二人共、その方がいらっしゃるというだけで、その世界全体が引き締まるような、文字通りの重鎮だった。
 日本のアニメーションの黎明期における先達は数多い。しかし、大資本による東映動画の設立によって、それまで家内制手工業的であったアニメーションが定期的な商業ベースに乗るようになったその初めの時期に、森さんがいて下さったこと。これは何という幸せなことだったろう。
 神話の、初めの神がその五体から様々な神々を生まれたように、森さんは東映動画を基盤に、数多くの後輩を育てられ、現在へと続く礎を作られた。森さんの教えを受けた者は他の会社に移って後もそれを更に後に続く者に伝え、新たな幾つもの流れが生まれた。もしも森さんがいらっしゃらなかったら、東映動画の長編はあれ程豊饒なものには成り得なかっただろうし、その後の広がりもなかっただろう。
 森さんは作画監督として関わられた作品、原画として受け持たれた部分では徒に暴力的なもの、不快なものは極力排除して来られた。また、作画にあたっては、無垢なるもの、清らかなるものへの「憧れの気持ちを抱いて」描いて来られた。森さんのそうした姿勢は作品に投影され、あの独特の穏やかな画風と相まって、必然的に作品に品位を与えていた。
 作家的な立場よりも一貫して職人としての誠実さで作品に関わって来られた森さんの姿勢を思う時、森さんの関わられた個々の作品について論じることは意味を成さないに等しい。森さんの成されたことについては言葉で語るよりも、とにかく実際に目で見ること、そして感じることが一番だ。

 『白蛇伝』のパンダやミミー、愛すべき動物愚連隊。『わんぱく王子の大蛇退治』のイザナミの優美さ、クシナダの愛くるしさ。『西遊記』の吹雪の中を歩むリンリンの姿。『少年猿飛佐助』の山の動物たちの戯れ。『長靴をはいた猫』のローザ姫の麗しさ、ペロの軽快さ。そして、大塚康生さんが「入神の技」と称えた、『ホルスの大冒険』でのヒルダの揺れ動く心を見事に表現し得た入魂のアニメート。
 彼らは皆、スクリーンの上で生きている。実際の人物や動物よりも生き生きとした魅力を持って。
 ヒルダについて、フィルムのコマの中にスクリーンで確かに見た筈の表情の絵がない、即ち、コマとコマの間の移りゆく時間の中だけに存在する表情がある、というのは池田憲章さんの発見であり、それに関して、森さん程の人ならばそうしたことも計算した上でアニメートしているだろうというのは宮崎さんによる分析だけれど、それは全くその通りと思う。一枚一枚の絵の魅力もさることながら、スクリーンの上でこそ初めて発揮される生命感。それこそがアニメーションの神髄だ。
 以前、私は森さんに関して、一つの作品、一つのシーンの中でさえ、森さんが原画を担当された箇所になると、それまでとはガラリと変わって、生きた膨らみを持ったキャラクターが、指の先にまで血の通った確かな動きを始める様に驚き、さながら魔法のようだと感嘆したものだった。アニメーションの語源は<生命を与える>にあるが、それを体現してみせた最高の人、それが森さんだった。その魔法の手が、例えば、作画の参考になりそうな動作を見かけると直ぐに鏡の前で再現してみるといった、細かい観察と、たゆみない研鑽によって培われたということも含めて。
 原画としての森さんが担当されたのは日常的な静かな芝居のシーンが多い。手掛けた長編がTVで放映された時には、自分の担当シーンは本筋に関係ないとばかりに大幅にカットされていて見ることが出来なかったと自身で語っておられたけれど、実はそのようなシーン、派手なアクションやドラマチックな展開で目を奪うのでないシーンこそ最高の力量を必要とするのだと、森さんの絵は無言のうちに教えてくれる。
 アニメーションによって描き出されたものが現実を越えて美しく、現実の更に向こうにあるもう一つの真実とでもいうべきものをまざまざと見せてくれる時、私達はアニメーションの持つ力の偉大さを知らずにはおれない。そして森さんこそ、その力を備えた不世出の人だった。「アニメは絵を描くより、キャラクターの心の動きを描くべきだと思います」という森さんの言葉は、確かな技術に裏打ちされて千金の重みを持つ。
 宮崎さんは『もりやすじの世界』の中で、「ぼくらは、もりさんから何かを受けとった。リレーのように、そのバトンが、次の人々に伝えられますように…」と書いておられる。
 宮崎さんが受けとったもの、それは何だったのだろう。僭越を承知で私見を述べるなら、それは、単に、技術の伝承やアニメーターとしての心構えといったものを越えて(それらを含んで)、アニメーションに対する思い、とでも言うべきものではないだろうか。
 自著『もぐらの歌』(1984年刊)の中で「心臓のエンジンが休止する日も遠くはないでありましょう(略)私は その瞬間 かならず こう思うでありましょう はっきりと心の中で こう言い切れるでありましょう
―アニメーションは楽しかった
―アニメーションをやっていてよかった」と書かれた森さん。
 あるいは『もりやすじの世界』の最後にまるで遺言のように記された、「アニメ君、ボクはキミが好きだよ(略)力を合わせて良いアニメを作ろうではありませんか。アニメの中には、まだいっぱい夢が残っているでしょうから…。」という言葉。
 轟々と音を立てて流れる濁流のようなアニメ界の一筋の清流のような森さんのアニメーション世界に接する時、森さんの残された言葉は、ますます重みを増して私達の胸に響く。
 泉下の森さんを嘆かせることのないような、そんなアニメ界であってほしい。そう思わずにはいられない。
 森さん、長い間、夢を与えて下さってありがとうございました。森さんが残して下さった沢山の宝物は大切に引き継いでいきますから。

初出:『Vanda』8号(1992年12月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※この追悼特集は、Vanda主宰の佐野邦彦氏による『やさしさと清楚さ―森康二さんの遺産』と題する文章と私の文、編集部による森康二作品リストで構成されています。佐野さんの文は森さんへの尊敬と的確な分析によるもので、『Vanda』自体の中心を占める音楽の話題も佐野さんの深い知識を持って編まれたものでした。その佐野さんも今は亡いことを思うと、神様は本当に必要な人をこそ早々に召してしまう理不尽さを感じざるを得ません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?