日記 2024.5.22 凪

ひとまず言葉にするとなにか起きるかなと思って、日記を書いてみようかと思う。

もう毎日書いてなくとも日記と呼んでしまっているが、これは僕の中では間違いなく日記なのだ。

自分によって生み出されたものについて考えを募らせるのは、わりかし傲慢なことだなと思う。それは、自分にとって価値を失ったものを、あるいは味のしなくなったガムを、口の中に惰性で保持し続けているようなものだとおもう。それは、人はゼロからものを生み出すことは決してない、と敷衍することもできるかもしれない。

人の活動の原理はそこには無い。出来上がったストラクチャは、活動を豊かにはするが、あるいは方向付けにはなるが、それらの活動の契機にはならない。我々の活動は、我々が生きるために、あるいは恒常性を保つ個体として存在するために、目的なき活動それ自体として行わなくてはならないのだ。それは時に他者を踏みにじり、現行の社会の倫理規範を破り、自分自身の身体でさえ傷つけてしまうかもしれない。けれど我々はそれを原理として生きているため、どこかで自分の醜さを受け入れねばならないのかもしれない。

構築された社会規範の中で、自らの正当性を保ちながら、その原理を抑え込み、針の穴を通すように己の実存を考えるのか、あるいは針のむしろになりながら、その原理のダイナミズムに酔いながら突き進むのか。まあ、作品制作というのはその逃げどころにあるなと思う。

あれこれと考える必要があるのかも分からない。何かを捨てる必要があるかもわからないし、それほど何かを求めなければいけないのかも分からない。けれどそれらは、何かによってではなく、私の活動原理によって、内発的にそうなっているに違いない。

大きな風の流れに、自分の煙を含んだ息が左から右に、数センチ先に届く前に流されてしまう。そんなふうに、この原理は世界にとっては興味が無いものだ。

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