日記 2023.9.22 スタイル

家族旅行、行ってきた初っ端から書けないようなことが沢山起きた。主に兄に関することだが、想像していた旅行とは全然違った。いやまあ、たぶん平和だったんだけど、平和だったんだけどなぁ、たぶん。

この前実家に、問題児の親は問題の親が作る、みたいなタイトルの本が落ちてて、いや、まあ、悩んでるのはすごく本人たちから伝わってきているんだけど、そういうのをふと発見してしまうと、ほんとに悩んでいるんだなとおもう。母さんの本棚はもうなんか、かつては料理本とかばっかりだったんだけど、そんな感じの本が多く目立つようになってきた。切ないというのかなんなのか、親が子供のことを引き受けないことなんてできやしないのだろうか。

ヨルゴス・ランティモスの「聖なる鹿殺し」を観た。奥村に勧められていた映画だ。内容的には、大きな選択を迫られるが、最後まで選びきれずに最終的に滑稽なルーレットをするしかなくなるという感じで、かなり僕の目にはコメディチックに映った。しかしこう、気持ちは凄くわかるというか、ああいう選びきれなさってのはほんとに愚かに人の目にうつる。僕は、エントロピーに逆らうようになんとか保持しているものが、指の隙間から零れでてしまっても、おなじポーズを取り続けてしまう。そういう意味で、主人公であるお父さんは選択せずとも決断は下していてえらいなと思った。

チェーンソーマンの1期を全て2時間位でパーッと読み終えた。わりかし良かったし、この設定をインスタントに進める潔さは結構爽快だったと思う。この爽快さというか人間関係の進み方は、結構理想形である。素朴で単純な関係性だから起きる出来事のダイナミズムみたいなものは、わりかし自分に足りなかったことでは無いか。僕は結構重い人間だったんだなと思った。

最近自らの身体を物理的に破壊してみようと試みて実行してみたのだが、わりかし心地よく、この軽さで一生痕が残るかもしれないものを身体につけてしまえる自分のことを少し見直した。自分の身体を大事にしすぎたことによる、人間関係の重さ、みたいなことから少し開放されたのではないか。そういえば、聖なる鹿殺しにおいて、自らの腕を噛みちぎるシーンがあるのだが、僕はかねてから、自分の腕を自分で食いちぎれるようになったら1人前だと思っていたので、そのシーンが出てきて、えー!って思った。

そういえば僕がタバコを吸い始めたきっかけも、自らの身体を破壊するのが目的であった。そうしなきゃ、あまりの潔癖症に人のことを愛せなくなるんじゃないかと思ったからだ。身体の破壊は結構ポジティブなんだよな。理性的に行うことで、かなり動きが軽やかになる。チェーンソーマンには、そういった軽やかさみたいなものがあった。

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