見出し画像

「GOTCHA!」とは何だったのか?

2020年9月29日に「GOTCHA!」が公開されてから、早くも2年を迎えようとしている。ゲームボーイを彷彿させるドット調の背景の上に”PoKeMoN"という文字が浮かんでから、「GOTCHA!」と叫ぶまでの時間は、初代ポケモン図鑑の151匹にかけた1分51秒である。そのわずかな時間でこのミュージック・ビデオは、ポケットモンスターと僕らが歩んだ25年の歴史を駆け抜けてしまう。

「GOTCHA!」冒頭のシーン
初代らしい背景が郷愁を誘う


25年の歳月が流れる間、初代から現在までシームレスにポケモンというコンテンツを愛し続けた人もいるだろう。しかし、多くの人は、時に深くポケモンと関わった時もあれば、いつしか距離をおいてしまった時もあったのではないだろうか。あるいは、比較的若い年代の人であれば、自分の生まれる前の世代についてはよく知らない、ということもありうるだろう。

「GOTCHA!」というMVのすごいところは、僕らが経験しなかったはずの出来事さえも、まるでリアルタイムで経験したものごとであるかのように、思い出として想起させるところにある。

最近飽きるほど書いていることだが、僕は第4世代でポケモンを卒業してしまったので、第5世代以降のストーリーや、登場するキャラクター・ポケモンについてはまったく知らなかった。にもかかわらず僕は、太陽の下でポーズを決める幼馴染の3人組に親しみを覚え、楽しそうな少年・少女たちの笑顔の裏に暗い影を感じとり、深い孤独にとらわれた緑色の髪をした青年の眼に心を揺さぶられた。

未だにXYエアプです

いや、これは彼らを知った今になって、捏造された記憶なのかもしれない。流れゆく映像を前に、何も考えず夢中に見入っていた、というのが事実なのだろう。しかし、”事実”というのは、時にそれほど重要ではなくなるものである。もし僕が「それは本当に起こったことなんだ」と信じるならば、それは”事実”でなくとも”真実”でありうる。僕は知らないはずの過去を、たしかに思い出として想起した。それが僕にとっての真実である。


フィクションにおけるリアリティとは、”未だ現在と化したことのない過去”を、観る者に”思い出”として体感させる力のことである。だが、これは自己撞着を起こした表現だ。人間は、見たことも聞いたこともないものを思い出すことはできない。

しかし、それを可能にすることが、虚構=フィクションの機能であり役割である。受け手が現実の世界では体験することのできない物事を、”思い出”としてどれだけ深く想起させることができるかが、そのフィクション=虚構が「物語」であるか「つくりばなし」であるかを決定づける。

僕らは「午前2時に踏み切りに望遠鏡を担いでいった」ことなど実際にはないにも関わらず、まるで本当に天体観測をしたことがあるかのように、その時の情景と心持ちをありありと思い浮かべることができる。それが「物語」の力だ。もしどこかしらけてしまうところがあるならば、それは「物語」でなく「つくりばなし」であるからだ。

僕のポケモンは、ルビーから始まった。なぜポケモンをやりたいと思ったのか、そのきっかけは今となっては定かではない。おそらく友達がやっていて、自分も欲しくなったとか、そんなよくある理由だったのではないかと思う。


しかし、ルビーを買ってもらうまでが、けっこうたいへんだった。僕は欲しいものを欲しいということができない性格で、両親から「何が欲しい?」と聞かれるまでは、ゲームをやりたいと言うことができなかった。なぜこんな面倒な性格になってしまったのかは、よくわからない。何かを欲しがることで誰かから叱られた記憶もないし、我慢は美徳であると教えられた覚えもない。そして、いい歳をしたおじさんになった今でも、何かを「好き」とか「欲しい」と言うことを「恥ずかしい」と思ってしまう。つくづく面倒くさい性格だ。

19年の時を経て出会えたジラーチ
なぜかゲノセクトがデレデレしている


話を戻そう。僕がルビーを始めようとした時は、ジラーチの映画が公開されようとしていた。前売り券にジラーチの引換券がついていて、ゲーム上で入手することができるというもので、僕もジラーチが欲しくてたまらなかった。

しかし、僕はまず第1に、なかなかゲームが欲しいと言い出すことができなかった。そして第2に、ようやくゲームを買ってもらった日に、ジラーチが欲しいと言い出すことができなかった。その結果起きてしまったのが、ゲームボーイ・アドバンスとルビーを買ってもらったその日に、前売り券の販売が終了してしまった、という事件である。


もしも、もっと早くにゲームが欲しいと言えていれば、あるいはルビーを買ってもらったその日のうちにジラーチが欲しいと言い出せていれば、こんな悲劇は起きずに済んだ。だが、僕の残念な性格ゆえに、後日両親は販売が終了した前売り券を求めて、貴重な休日にあちこちのデパートをめぐり歩くことになってしまった。これが僕にとって、ポケモンにまつわる最初の思い出である。

こうしてポケモンに出会い、やがて離れていくのと時を同じくして、BUMP OF CHICKENの音楽にはまっていった話はどこかで書いた。そして10年以上の歳月を経て、「アカシア」という曲に結び付けられて、僕はポケモンと再会を果たした。

BUMPの曲はとても難しい。僕は音楽的素養や知識といったものを微塵も備えていないので、あくまで言語=歌詞に焦点を当てて、この「アカシア」という曲の魅力を解き明かそうとしてみる。

  透明よりも綺麗な あの輝きを確かめにいこう
  そうやって始まったんだよ たまに忘れるほど強い理由

このようにして「アカシア」は始まる。この歌詞は抽象性の塊だ。”透明よりも綺麗な あの輝き”とは何だろう?これに続く歌詞にも具体的な答えは出ていないように思われる。

  冷たい雨に濡れる時は 足音比べ 騒ぎながらいこう
  太陽の代わりに唄を 君と僕と世界の声で

”あの輝き”とは、太陽の光のことだろうか?歌詞はまだ続く。

  いつか君を見つけた時に 君に僕も見つけてもらったんだな
  今 目が合えば笑うだけさ 言葉の外側で

ここにも”あの輝き”の答えは出てこないまま、曲はサビを迎えてしまう。

”あの輝き”の正体は、世界を照らし出す太陽なのか?君に出会った時に感じた運命が発した火花なのか?それとも目標=夢が放つ眩いばかりの光なのか?


BUMPの曲をあまり知らない方のために答えを提示すると、「歌詞を聞いてあなたが思ったこと」が正解である。なんだよそれは、と自分でも思う。でもこれがBUMPを理解するうえで重要なところなので、詳しく解説する。

BUMPの歌詞解釈の方法は対になる2つの軸があると僕は考えている。「対象解釈の多義性」と「対象から受ける印象の多義性」と勝手に名付けているが、なんだか小難しいのでかみ砕いてみる。

「アカシア」に関係する「対象解釈の多義性」というのは、要するに”あの輝き”についての話で、”あの輝き=X”に入る”X”は、曲を聴いた人が勝手に決めていい(自由に解釈していい)ということです。

たとえば「X=夢」でもいいし、「X=あの日見た太陽」でもかまわない。映画のサトシ君だったら「雨上がりにピカチュウと見た虹色の羽をしたポケモン」ということになるかもしれない。ゴウ君なら「幼少期に憧れたミュウ」であるし、コハルちゃんにとっては「イーブイと出会ったこと」であるかもしれない。

”あの輝き”が何であるかは、リスナーが自由に決めて良いよ、ということだ。ひとりひとりが違う答えを出して良いのだから、そこには無数かつ多様な解釈が生じることになるので、「対象解釈の多義性」と名付けた。


「対象から受ける印象の多義性」は「アカシア」で解説するのが難しいので、いつか別の曲でやろうと思う。

それにしてもややこしい話だな。自分で書いているのに頭が痛くなってくる。「GOTCHA!」の話はどこに行った?


  ゴールはきっとまだだけど もう死ぬまでいたい場所にいる


この歌詞に合わせて7人の歴代チャンピオンが登場する。この間たったの6秒である。ちなみにサビ直前の”いつか君を見つけた時に~”の6秒間では70匹ものポケモンが登場している。このMVはあまりにも情報量が多すぎて、何度もスローで再生して見返さないと細部まで理解できない。逆に言えば、何度観ても飽きるところがない、ということである。

イケメン石マニアでクソニート御曹司のダイゴさん
結局僕が1番強くてすごい人


僕が「GOTCHA!」で最も好きなシーンは、陽気なアローラ組から一気にシリアスなBW組に転じ、そしてHGSS組へと繋がるシーンだ。


  泣いたり笑ったりする時 君の命が揺れる時


この1フレーズですべてを物語ってしまう藤原基央の恐ろしさもさることながら、わずか6秒間にポケモンというコンテンツにおけるエッセンスを詰め込んでしまう株式会社ボンズの映像のクオリティよ…。

楽しそうな3バカ


”泣いたり笑ったり”して楽しそうに見えるアローラ組も、リーリエ一家の崩壊という、まさに”命が揺れる”ような暗く悲しい過去を抱えている。一方でBW組も、大人の争いに巻き込まれた結果、こちらも”命が揺れる”ような激しい信念のぶつかり合いをしたが、叶うならば”泣いたり笑ったり”できる仲間としてお互いにもう一度出会いたい、と願っているのではないだろうか。

"尊い"という感情が芽生えたら最寄りの警察署へ


”泣いたり笑ったり”することと”命が揺れる”ことは、決して対極の関係にあるのではない。むしろコインの裏表のように、いかんとも離し難い関係である。

異なるものを信じる人間同士は、時に激しくぶつかりあうこともあるが、それを乗り越えた時には、互いに深くわかりあうことができるかもしれない。あるいは逆に、喜怒哀楽をわかちあえる仲間とだからこそ、魂を揺さぶるような危機に直面しても、共に立ち向かうことができるのかもしれない。藤原とボンズは、それぞれ音楽とアニメーションという異なるツールを使って、ひとつの真実を鮮やかに描き切って見せる。熱すぎ。

Nを見つめるトウコ
瞳に映るのはトウヤとゼクロム
僕はN=レシラム派なのでドンピシャ


そしてNを見つめるトウヤの瞳がクローズアップされると、ほんの一瞬だけHGSSの主人公であるコトネの瞳に切り替わる瞬間がある。「ポケモンは強くなるための道具でしかない」と啖呵を切って研究所からポケモンを盗み出し、様々な人と出会う旅を終えて「ポケモンとトレーナーは信頼し合う仲間」であると考えを改めたライバルのシルバーを見て、主人公のコトネが何かを思うシーンだ。

孤独な境遇で育ったNにとってトウヤ(トウコ)は
初めてわかりあうことができると思った存在だったのだろう


BWは「対立する信念の衝突」をテーマに、絶対的に正しいことは存在せず、白と黒の入り混じった混沌こそがこの世界である、というメッセージを送っている作品だと僕は解釈していたが、この場面を見て浅かったと反省した。

白と黒が激しく火花を散らし合った先にあるのは、灰色の混沌ではなく、鈍く銀色に輝く世界なのだ。ピカピカと派手な金色に輝いた、誰もが幸せになれる世界をつくることはできないかもしれない。けれども、ひとつひとつの出会いは微かであれど光を放っていて、時に深い対立を乗り越えていくことで、よりよい世界にしていくことができるにちがいない。コトネがそんなことを思っているように、僕は感じた。だからコトネが好きなんだ!(意味不明)

ほんの一瞬だけトウヤとコトネが重なる
無愛想で孤独な少年シルバーも実は暗い一面を隠している
ちょっとだけ笑っているように見える


「GOTCHA!!」の公開から2周年を迎えるに先立ち、今まで思ったり考えたりしてきたことを書いてみた。うまくまとまらない部分や言語化に苦労した箇所もあり、8時から書き始めたのにもうお昼ごはんの時間になってしまった。この文章を書いている間に、いったい何度「GOTCHA!」を再生したことだろう?文章を書くというのは、好きな人間にとってさえ苦しい作業であると実感するこの頃である。

次は好きなポケモンについて語るつもり。





















この記事が参加している募集

#ポケモンへの愛を語る

2,088件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?