蛍光灯は切れたまま
休日が終わった。精神的に調子が悪い二日間だった。
何かを書こうと思ったけれど、現実にも情緒的にも何もない。夜が静かで涼しい。ただそれだけが救われる感じがする。
日々の毒が徐々に身体を蝕み始めているような感覚がある。このままだと本当にダメになりそうだ、などと思いながら、なんだかんだもう1年近く生きている。リビングの蛍光灯はひと月近く切れたままだ。
では今の自分に何が必要か、と考えても何も浮かんでこない。願望や希望の類はなく、ただ日々を切り抜けること、今年度の仕事をしっかりこなすことだけを考えている。どうせ今年度が終わっても、次年度が始まるだけだというのに。本質を突いてしまうのは良くない。
睡眠だけは安らぎがあるような感じがしながら、平日は全く疲れが取れない。翌日に不安を残しているからだろうか。よく眠れるのは金曜日と土曜日の夜だけだ。今日もきっと、明け方に何度も目を覚ますのだろう。
であれば夢の中はどうか、と考えても、夢でさえ綺麗な景色を見せてはくれない。時折過去を思い出させるくらいだ。
過去に思い描いていた未来に、拘泥しているのだと知っている。それは自分の記憶の片隅に転がっていて、時折何かの拍子に踏みつけては痛みを感じる。綺麗な景色ばかり見せる。
自分は本当に人間なのだろうか、とたまに考える。いや、ずっとそう考えてきた。いつからだろう。思春期には意外とそう思ったことはなくて、大学に入ったくらいの頃から、常にそんな言葉が自分の中に渦巻いていた。誰しもが当たり前にできることが、自分にはできない。そんなこと、と人は笑うかもしれないけれど、それこそが自分にとって一番の価値を持っていて、ずっと叶えられなかった。いつしか目的と手段が入れ替わってしまったような気がするけれど、あまりにも自分の中で大きな問題となり過ぎて、もう自覚することすらできない。横浜駅の中央改札前、何人いるのか分からない人混みを抜ける時、お巡りさん、ここに人間のなり損ないがいますよ、どうかつまみ出してくださいよと、悲しい言葉を無の中へこだまさせていた。そんなことを思い出す。
横浜の思い出は、振り返れば綺麗に見えるけれど、そんな日々の積み重ねでもあった。雨に濡れながら、桜木町周りを歩いていた景色を思い出す。度々行っていたから、いつのどんな景色なのかは覚えていないけれど、つま先から広がる寒さと不快感は覚えている。冬、お気に入りのコートにくるまって歩く時間が好きだった。それはいつの記憶だろう。過去の記憶にしか目が向かないのだ。これからのことなんて考えられない。何十年後の自分が、将来への種を一つも蒔いていない今の自分を恨んだとしても、今はただ日々を生きていること、死なずにいることだけで精一杯。そういえば明日の朝食がないな。