褒められても素直に受け入れることができない人の思考(サンプル:自分)

褒められたとき、素直に喜べる人はすごいと思います。私は褒められても、「そんなわけないよな。こんなこと誰でもできるし」と反射的に思ってしまい、素直に喜べません。褒められて、嬉しいという感情になったことがありません。

何故こうなったのか?

私は学生時代、批判することが大好きでした。ディベートでは必ず少数派に入り、多数派の意見を批判していました。新たなことを始めようとする人を、規則に従って批判してその出鼻をくじいていました。批判することは、自分では何も生み出していないのに、優越感を得ることができる行為です。とても簡単です。すべての事象は2面性があり、良い面もあれば悪い面もあります。その悪い面を見つけて声を上げれば良いだけですから。

あるとき、批判している自分が、何も生み出してないことに気づきました。自分はただ既存の事象に対して悪い面を見つけてそれについて声をあげているだけで、何にも成し遂げてないなと気づきました。その瞬間から、批判の矛先が自分自身に向きました。自分の言動を自分で批判します。批判をずっとしていたので、悪い面を見つけることがとても上手くなっており、そのための知識も身についていました。

自分に対して批判をしていると、他人の言動の受け取り方も変わってきます。他人の言動を認識した後、それを解釈するのは自分自身だからです。相手はそんなことを言っていないのに自分で悪意を付加して解釈してしまいます。今では悪意を付加するとまでは行かないので、「そんなわけないだろ」という否定を付加して解釈しているのだと考えています。その瞬間は幸せだったとしても、後から幸せではなかったという記憶で上書きしています。

批判することが悪かったのか?

本当は、良い面と悪い面を知った上で、より良くするためにどうするか考えるのが望ましいと思います。よって、悪い面を見つけるために批判をすることは問題ないです。悪かったのは、ずっと批判をし続けていたことだと思います。私は、良い面を見つけることが絶望的に下手です。良い面を見つけることが上手くなっていれば、自分の良い面を見つけるのも簡単です。

知識があることが悪いのか?

批判をするための知識を持っていたと述べましたが、知識の問題ではなく、それをどう使うかという問題なので知識を多く持つことは悪くないです。批判をするために知識を使うことが上手くなっていたということですね。ですが、知識を持てば持つほど、悪い面を見つけ易くなることは否定できません。

暴論ですが、幸せになりたいなら頭悪くなればいいという考えがあります。幸せになるには、幸せの基準を下げるか、幸せの基準に至るまで幸せになるであろうことを得るかどちらかです。大体の人は後者によって幸せになろうとします。ですが、前者を満たす方が簡単かもしれません。頭が悪い、というのを知識が少ないというように定義すると、自分が幸せでないことに気づくための知識も少ない、ということは幸せの基準も低い、よって毎日幸せに過ごせるということですね。

幸せを感じないとどうなるか

飽きます。ほとんどのことに飽きるようになります。やったって楽しくないから。やっているときは楽しいかもしれないけど後から楽しかったことを自分で否定するので。何かを続けることがなかなかできないですね。できたとしても、それは惰性で続けているだけです。

他の考えられる要因

このような人は、そもそも自己評価が高すぎるだけかもしれません。作り上げてきた自己評価が崩れ去ったとき、「こんなはずじゃなかった」と考え続けるようになるからです。

なんでもそつなくこなせるから、楽しさを感じないという考えもあります。自分にとって本当に楽しいことを知らないだけの可能性もあります。

世の中の大多数の人はこうなんじゃないの?

確認はしていませんが、自分はそう考えています。珍しいからニュースになるのであって(人が犬を噛んだらニュースになって、犬が人を噛んでもニュースにならない)、毎日楽しく生きている人や、自分のやりたいことをできている人、何かを成し遂げた人がニュースになっているのならその人たちは珍しい人なのではないか、という考えです。珍しい人のようになれたら良いですが、無理をしてまでそのようになろうとするのは幸せになれる機会を捨てているだけになっていると思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?