マルクス・主体性の罠

同じ箇所の後段からもう一つ引用しよう。

「―君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫1964年,p.187)

マルクスのこの表現は、「とりわけある種のひとびとに好まれ、「君は愛をただ愛とだけ」交換できる(so kannst du Liebe nur gegen Liebe austauschen)という言いまわしとならんで、くりかえし言及」されてきた(熊野純彦)。

なるほどロマン主義的で、近代的な自我が好みそうな思考と言うのだろうか、あるいはちょっと見方をかえてみれば「どんなに一生懸命やったって、結果を出さなければ意味がない、結果がすべてなんだよう」と言い切る社畜の上司の言葉のようにもとれる。

マルクスもつまずく主体による能動性の罠こそは、古来から繰り返されてきた人間の能動的な能力への過信とその限界についての反省、傲慢さから謙虚さへの揺り戻しといった人間の思考方法が持つ一局面なのである。

より身近なところでは仏教の歴史的展開のなかにもそれは見て取れる。初期仏教は釈迦の悟りが示すように人間の主体的能動的な能力の肯定、自力救済の思想だったが、やがて一世紀前後に成立した大乗仏教では、自力での救済を否定する他力の思想が前面化する。初期仏教が自力で自己救済を目指すものであったとすれば、大乗仏教では菩薩という他者の力によって救われることを主張するのである。

マルクスもまた主体が能力に応じて働き、成果に応じて受けるという自力の原理、それはまさにエゴイズムのことなのであるが、等価交換という原理では決定的に不十分であることを最晩年に至ってやっと知ることになるのであるが、残念ながら彼にはその思想を十分に展開する時間は残されていなかった。





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