「君は愛をただ愛とだけ交換できる」?

初期マルクスの『経哲草稿』には美しい言葉がちりばめられている。

「人間を人間として、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提としてみよう。そうすると、きみは愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫1964年,p.186)

あまりにも美しすぎてマルクスを誤解してしまう言葉でもある。

「問題は、とはいえ、ほかでもない「交換」ということばにあります。『草稿』に代表される立場が、やがてマルクス本人によって否定される必要があったのは、この交換という発想自体に、乗り越えられるべき限界があったからではないでしょうか。」(熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』岩波新書2018年,p.249)

マルクスにとっての躓きの石は等価交換という考え方それ自体にあった。各人が能力に応じて働き、働きに応じて受け取るならば、いわば愛をただ愛とだけ等価交換する社会ははたして存続しうるのだろうか。少なくとも子どもは愛を受ける当然の権利者ではあり得ないだろう。障害者もまた特別な慈悲にすがるしかないようだ。

ではいったい何が等価交換の代わりに愛の原理になるのだろう。「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」(ゴータ綱領批判)受け取ること、つまりは<交換>を越えて、<贈与>の原理が働くことが必要なのである。

ところでこの<贈与>の原理は、一般に理解されるように一定の生産力の余力が生まれたときに、という保留条件がつくものなのだろうか。

マルクスの考えもあまりはっきりしないように見えるが、

「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能となっている以上――自然それ自体からの無償の贈与、先行する世代からの無数の贈与、ともに生きている他者たちからの不断の贈与を受けとらずに紡がれてゆく生など、およそありうるでしょか――、贈与の事実そのものについては、その存在を疑う余地がありません。贈与の原理はたほうまたその困難のゆえに――贈与が純粋な贈与であるかぎり、その存在すら気づかれてはならないのかもしれません――、現在の思考の課題ともなっているところです。」(同p.259)

現実の生はそのように<贈与>なしには成立しないことだけははっきりしている。我々が現在を生きているということはそういうことであり、それがなくなったときには、太陽という根源の贈与者がなくなったときあらゆる生命が存在し得ないように、我々も生きていられないというだけのことだ。



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